第七十六話 黙ってて

 途端に大聖堂はパニックに陥った。一般参賀者達は悲鳴を上げながら我先へと出口へ殺到する。

 ゆりは壇上へ進み出ようとするが、人の流れに逆らえずなかなかそちらへ辿り着けない。人混みの隙間から、遥か前方で原初の獣に変貌したナオトがアラスターに襲い掛かり、抜剣したアラスターがそれを往なして切り結ぶのが見えた。



「やめて! アランさん! ナオト!!」


 ゆりは人ごみの中から声を枯らして叫んだ。だが生憎どちらもそれには応えなかった。

 ゆりが逃げ惑う人の波に飲み込まれ転びそうになった時、ユークレースがその腕を掴んで引き上げた。


「何やってんだよ!?」

「ユークレースさん! ナオトを止めないと!」

「あ~~もう、ほんとあんたは面倒くさいな!!」


 そう言うと、ユークレースはゆりを引き寄せ肩を抱き、人波を掻き分けた。そうやってなんとか祭壇の前に辿り着いた時には既にほとんどの参賀者が大聖堂から避難し、元から壇上にいた人々と一部の神官達が残されるのみとなっていた。



「議長! 早く祭壇下へ!」



 アラスターは、腰を抜かして壇上で尻餅をついている小太りの議長を庇うようにナオトと対峙していた。

 だが、議長は動けない。すると見かねたのか、いつの間にか――あるいは初めから――既に祭壇の下に避難している教導や神官長の横に控えていたエメが、議長の腕を掴み、祭壇の脇から強引に引き摺り下ろした。


「すまない!」


 振り返らずにエメへ短い礼を投げたアラスターの制服の左腕が、切り裂かれて血で汚れているのをゆりは見た。

 ナオトはアラスターと距離を取りつつ、低い威嚇の唸り声をあげている。


「あ、おい!?」


 ゆりはユークレースの制止を振り切ると迷うことなく壇上へ駆け上がり、そのままナオトの白金の体に飛び付いた。


「ナオト! 大丈夫、大丈夫だから……落ち着いて」

「ゆり!?」

「アランさんは黙ってて!!」


 アラスターの制止の言葉に、ゆりは珍しく乱暴に返すとナオトの顔を掴んでその黄金の瞳を覗き込んだ。

 その瞳の輝きからどうやらナオトの自我はまだ失われてはいないと判断したゆりは、ゆっくり、言い聞かせるようにナオトに語りかけた。


「ナオト、私を見て」


 グルルルルルゥ……

『ゆり、他の誰のものにもならないで』


 唸り声に混じり、ナオトの声が空気中の魔力を通してゆりに流れ込んだ。


「誰のものにもなってないよ」


『オレだけを見て。オレを愛して』


「ほら、私の目を見て。ナオトしか映ってないよ」


 ナオトの牙が、湿った鼻息が触れるほど近くで、ゆりは一瞬も逸らさずにナオトを見た。すると、ナオトの全身から立ち上っていた恐ろしいほどの殺気が徐々にその棘を失い、収縮してゆく。


「そう、いい子。いい子だね」


 ゆりは獣の赤銅色のたてがみを撫で、本物の猫をあやすように喉元をごろごろと掻いた。

 魔力を持たない者には、ナオトはただ唸り声をあげているようにしか聞こえない。恐るべき力を持つとされる神話上の存在――原初の獣が、一人の女に何やら話しかけられ、懐柔される様子に大聖堂はしん、と静まりかえる。

 ただ一人、同じ壇上で――ナオトの“声”を聞き取ることのできるアラスターだけが、憎々しげな顔でそれを見ていた。



 ぐらり。


 突如視界の上方が揺れる気配がして、次の瞬間異変を感じ取ったアラスターが叫んだ。



「ゆり!」



 刹那、獣がゆりの服を咥え、強引にその場を飛び退いた。同時にアラスターが得物の長剣を投げ付ける。かつん、と長剣が当たり僅かに軌道を逸らされたそれは、ゆり達のいたはずの場所のほんの少しだけ横に落ちた。



 ガシャァァアアア――――ン……!!!!



 金属が叩きつけられ、ガラスの弾ける甲高い音が堂内に響き渡る。それは、真上の天井に吊られていたはずの巨大なシャンデリアだった。


「……!」


 ほんの少しアラスターとナオトの反応が遅れていたら下敷きになっていたかもしれない。ゆりは遅れてやって来た恐怖に思わず身震いする。すると、飛び散る破片から彼女を庇うように立っていた獣が、慰めるようにゆりの胸に顔を寄せ、ごろりと擦り寄った。


「守ってくれたの……?」


 獣はゆりの問いに応えるように小さく喉を鳴らした。そして、そのまま白金の光に包まれると――再び一人の青年の姿へと変貌する。

 ゆりが慌ててそれを抱き留めると、青年ナオトは黄金の瞳をとろんと儚く薄めた。


「ナオト! 大丈夫?」

「ん……。ゆりは……?」

「私は大丈夫……っ」

「そ。ちょっと眠い。寝かせて……」


 上半身を抱き締め見下ろすゆりの頬に触れると、ナオトは目を閉じ意識を手離した。だらりと落ちた手を慌てて握るが、それはいつも通り温かかった。規則正しい呼吸を確認したゆりは胸を撫で下ろす。どうやら本当に眠っただけで異変はなさそうだ。暫し様子を見てそう判断すると、顔を上げ控えめに周囲に呼び掛けた。


「あの、誰か……彼を部屋へ運んであげてくれませんか」


 その言葉に、式中にナオトの近くに座っていた数人の神官が恐る恐る壇上へ上ってきた。おっかなびっくりといった様子で遠巻きに二人を囲んだ神官達を安心させようと、ゆりはできるだけ穏やかににこりと微笑んだ。


「大丈夫、寝ているだけから。いつもの勇者様です」


 その言葉に神官達は顔を見合わせ、ゆりの元へしゃがみこむと眠るナオトを受け取る。するとそれを見届けていた他の神官達もわらわらと壇上に集まりだし、慌てて落ちたシャンデリアの状況や他の調度品の無事などを確認し始めた。

 線の細い神官達に三人がかりで運ばれるナオトを見届けると、ゆりはすぐさま振り返り、シャンデリアの元へ集まる神官達とは逆――アラスターの元へ駆け寄った。



 アラスターは左腕を庇いながらその場へ膝を折り、座り込んでいた。



「アランさん! ごめんなさい。声を荒げてしまって……! その、必死だったので」


 ゆりがハンカチを取り出して血の流れる左腕を押さえようとすると、アラスターは片手でそれを制した。


「いや、いい。それよりゆり、怪我をしていないか」

「私は大丈夫です。私よりアランさんの方が」

「……何故、あいつはいきなり獣化したんだ。呪いのせいなのか」


 ゆりの労りの言葉を遮るように、アラスターは疑問を投げ掛けた。


「わからない……。でも今、呪印のせいでちょっと不安定なんです」


 ゆりは目を伏せると、戸惑いがちにその問いに答えた。ナオトが獣に変わる時彼の足下に不自然な魔力の光を見たが、確信のない今、それを口にはしなかった。


「まるで誰かに嫉妬しているかのような口ぶりだったな」


 ナオトの声を聞いたのだ、とゆりは瞬間的に理解した。


「………それは多分……、アランさんにではないかと……」

「ほう。俺が」


 アラスターは眉根を寄せた。

 アラスターがゆりに愛を告げた日、ゆりは彼の香りを纏って神殿へ帰った。その時のことを言っているのだろうと察すると、苛ついた様子で切れ長の目を側める。


「あれくらいのことで嫉妬など――。それなら俺は、何度あいつを殺しても殺し足りんな」

「アランさん、冗談でもそんなこと言わないで。それより怪我、治療しないと」

「……俺は勇者殿かれと同じ神獣人だ。傷は放っておけば、そのうち塞がる」

「でも、痛いでしょう……?」

「身体の痛みなど、大した問題ではない」


 そう言うと、アラスターは目を瞑り深く息を吐いた。



 ――身体の痛みなど、大した問題ではない。先程からズキズキと痛む、この心の痛みに比べれば。


 俺もあいつのように、全てをさらけ出し、獣に心を委ねることができたなら。

 全てを投げ出し、ゆりを求める想いひとつだけを抱えることができたなら――。


 俺はあいつが憎らしく、羨ましい。

 俺だって、誰にもゆりを渡したくはない。



 今にも爆発しそうなほど、彼の中の黒い狼は膨らんだ。だが、彼の鋼の自制心はそれを許さなかった。

 彼の内心で激しく争っているその葛藤を知らないゆりは、アラスターが何かに耐え、辛そうに顔を歪ませるのは腕の怪我のせいなのだと思った。


「アランさん。……アランさん?」

「放っておいて、くれないか」


「…………。アランさん、ちょっと黙ってて?」



 “黙ってて。”



 それは先程とは違い、優しく包み込むような声音だった。ゆりは脚を投げ出すように座ったアラスターの頬に手を添えると、彼の唇に触れた。



「放っておくなんて、できるわけないじゃないですか……。どうして、そんなこと言うんですか」

「ゆり、何を――」

「ごめんなさい。こういう方法でしか、治せないんです……」


 そう呟くと、ゆりはそのままアラスターの唇を奪った。

 ゆりはぎゅっと目を瞑ったまま、対照的に驚愕に目を見開くアラスターの舌を追い掛け、絡めた。吐息を漏らしながら必死にアラスターの頬を掴んだ手に力を込めると、戸惑いがちにゆりの後頭部にアラスターの手が添えられる。

 ゆりのぎこちないながらも懸命な口付けに、アラスターは薄金の瞳を妖しく輝かせると――――彼の理性は、そこで途切れた。



「ああ……ゆり……、ゆり」



 待ちわびた感覚に心を震わせると、アラスターは噛み付くようにゆりへ口付けを返した。それは荒々しく、情熱的で。ゆりの麻痺しかけた脳が酸素を求めてアラスターの胸を押すと、逃さないとばかりに後頭部を支える大きな手に力が込められた。

 ゆりは半ば覆い被さるような姿勢になったまま、与えられる熱情に翻弄された。いつの間にか左腕の傷はすっかり塞がっていたが、アラスターはゆりの身体を縫い留め、いつまでも離しはしなかった。



 神聖なる大聖堂の祭壇の天鵞絨ビロードの上で。周囲には人がいることも忘れたまま。円形の天井を囲む青いステンドグラスが二人を見下ろす中、その口付けは何度も繰り返された。


 二人の正面、微笑みを湛えた女神像の横顔に蝋燭の炎が映り、ふるりと揺らめいた。

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