第七十四話 自由の鎖
そして、眠るナオトを見舞ったその日の午後。
相変わらず雑然としたユークレースの研究室で、ゆりは前回と同じように血を抜かれていた。
「喜べ、研究は順調だ。あんたの血は回復薬に使われる触媒と相性がいい」
ユークレースは、大きな密閉容器いっぱいに充填されたゆりの血を見ると、満足げに頷いた。ゆりは部屋の隅にソファが置かれているのを発見し、その周りの謎の機械やら本やらを端に寄せると、一人分の座面を確保してそこに沈み込むようにもたれた。
「あとは、如何に濃縮できるかだな。流石に
この男、ぶっきらぼうな上に変人だが、魔道研究所の主任研究員という肩書きは伊達ではない。ゆりはユークレースの言葉に救われる気持ちで、ソファに背を預けたままではあるが彼に心の底から感謝を述べた。
「ユークレースさん、ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。あと約束通り、僕の実験にも付き合ってもらうぞ」
「はい。私でお役に立てることなら」
「そうか。じゃああんたの体を解剖するからそこに寝ろ」
「えっ!?」
ゆりが不穏な言葉に驚いて身を起こすと、ユークレースは真っ赤になりながら今日初めてゆりの顔を見た。
「……冗談に決まってるだろ!? 僕の高級なジョークを介しないとか終わってる」
「す、すみません」
――この人も冗談なんて言うんだ。もしかして少しは打ち解けてくれたってことなのかな?
そう思うと少しだけ嬉しい気持ちになって、ゆりは再び脱力するとにこりと笑う。それを見たユークレースは、怪訝な表情で「変な女」と呟いた。
「真面目な話をすると、あんたの体液に魔力が含まれていることはわかった。その濃度が尋常じゃないことも。――で、あんたの魔力の総量を見たい」
「はあ」
何をすればいいんだろう、とゆりが少し回転の鈍った頭で考えていると、ユークレースは自身のカラフルな羽毛が生えた首元をちょいちょいと指す仕草をしてみせた。
「
それとは、ゆりの首で鈍色に輝く首輪――「魔力殺し」のことである。
「自分では取れません。なんかそういう風に出来てるみたいで」
「そうか、なら僕が取ってやるから。あ。あと服を脱げ」
「なんでですかっ?!?!」
今度こそ本当にぎょっとしてゆりは飛び起きた。しかし当のユークレースは涼しい顔である。
「魔力が立ち上る瞬間、身体の何処からそれが湧くのか見たい。人体から何故魔力が失われたのかという長年の謎に対する答えになるかもしれないからな」
「ええ……でも……」
「あんたみたいなちんちくりんの地味女、素っ裸だろうがなんだろうが少しも下半身に響かないから心配するな。ていうか医者に肌を見せるのにいちいち恥じらったりしないだろ? それと同じことだ」
「そんなあ……」
ゆりが尻込みしていると、ユークレースは苛ついたように顎をしゃくった。
「早くしろ」
これは拒否する余地がなさそうだ、とゆりは腹を括った。ユークレースの言う通り、医者に診せると思うしかない。
「……ブラウスだけでもいいですか? 流石に下はちょっと……」
「ああ、わかったよ。まどろっこしいな。地味子のくせに勿体ぶるな」
ゆりは泣く泣く立ち上がると、革のコルセットベルトを外した。下のロングスカートには手を付けず、長袖のブラウスのボタンをひとつひとつ外してゆく。
「なんで女ってそういう面倒な服を着るかな……」
「ユークレースさん、黙ってて下さい」
ゆりがブラウスの前を寛げると、今度はユークレースがぎょっとした。
ゆりの身体は、全くちんちくりんなどではなかった。線は細いが、出るべきところは出ている。しかもまあまあの質量だ。
それに何より。晒された白い肌には痛々しい噛み跡が大量に付けられていた。場所により鬱血して赤黒くなっているところもある。
「それ……もしかして勇者様の趣味?」
「違います。……ちょっと、色々ありまして」
それは、前回ユークレースの元を訪れた日にナオトに付けられた跡だった。これでも、数日が過ぎ大分薄くなっているのだが。
もはや吹っ切れたかのようにてきぱきとブラウスを脱ぎソファの座面に丁寧に畳んだゆりは、下着だけで頼りない胸元を手で隠しながらユークレースを睨み付けた。
「ふうん。……意外と悪くないね」
「何言ってるんですか!?」
「バーーカ。本気にすんな地味子の分際で。ほら、ここに立って。天井に魔力計が吊るされてるから。……じゃ、その首輪外すから。前向け」
もはやユークレースの口の悪さにも慣れてしまったゆりは、渋々言われた通りの場所に立つと「魔力殺し」を外させるためにうなじの髪を持ち上げた。
「……げっ」
「?」
ゆりの白い首筋が露になった瞬間、ユークレースは美しい顔に不似合いな太い声を上げた。
ゆりが振り返ろうとすると、ユークレースは苦虫を噛み潰したような顔をして、ゆりの首の後ろに繋がれた三環だけの鎖を指で弾いた。
「『自由の鎖』……。この魔道具、今違法なんだけど? 何処で手に入れてきたんだよ……。これも勇者様の趣味?」
それはエメの取り付けた鎖。ユークレースが完全に変質者を見るような目付きでこちらを見たので、ゆりは濡れ衣とばかりに否定した。
「違います。これはエメが」
「別の男!? ……あんた一体、どんな環境で生きてるわけ……?」
言い訳した結果、余計に不審な目で見られてしまった。
「これ、そんなにまずいものなんですか?」
「承諾なしに付けられたの? ……あーあ。これ、昔愛玩用の奴隷に付けてた鎖だぞ」
「ど……っ!?」
奴隷用の鎖。倒錯的なその響きに、漸くゆり自身もとんでもないものを付けられたらしいという実感が湧き、血の気が引く。
「パッと見繋がれてるようには見えないから、“自由の鎖”。この鎖そのものが飼い主に居場所を知らせる発信器になっていて、更に装着者を深刻な生命の危機から守る力がある。現代では奴隷自体が違法だから、奴隷用の魔道具も違法なの」
「生命の危機……?」
前者の発信器としての用途はエメから聞かされていたが、もうひとつの“力”については初耳である。だが、それが奴隷用という本来の用途にそぐわない力のように思え、ゆりは首を捻る。
「言葉の意味わかってる……? 本来の用途は、飼い主が持ち物である奴隷をいたぶり過ぎて誤って殺したり、もしくは奴隷自身が自ら命を絶つのを防ぐためのものだ」
想像以上に壮絶な使い途に蒼白になって瞬きを繰り返すゆりを見て、ユークレースはハァーと大袈裟にため息をついた。そして自身の夜空色の髪をくしゃりと掻くと、呆れたように首を振る。
「……首輪外すのやめとくわ。実験おわり」
「えっ!?」
ユークレースがそう言ってドンと背中を押したので、ゆりは上半身裸のままつんのめった。
「な、なんでですか?! ひとを脱がせておいて!!」
「あのねぇ、首輪外したら鎖も外れるから飼い主に知れるんだよ?! そんな違法な魔道具を持ち出してくるなんて絶対カタギじゃない。僕は自分の命が惜しいよ」
普段の尊大な態度とは裏腹に意外と小心者の発言である。
「エメは飼い主じゃない……。ていうか、もしかして私、脱ぎ損ですか?」
「多少僕の目を楽しませたぞ。ちんちくりんは撤回しよう。良かったな」
「全然よくない!!」
「まあ落ち着け。早く服を着ろ」
そう言って一人、先に回転椅子にどかりと腰掛ける。どこまでも自分勝手な男に、ゆりは「最低すぎ……」と小さく毒づきながらブラウスに袖を通した。
「お、おい、目が座ってるぞ。……そうだ、菓子でも食え。女はこういうのが好きだろ」
ゆりのじとっとした視線に気が付いたのか、ユークレースは机の隅から可愛らしい菓子箱を取り出すと彼女に勧めた。ゆりがそれを覗き込むと、中に入っていたのは砂糖をまぶされ宝石のように輝く一口サイズのゼリー菓子達だった。
「あっ、かわいい……!」
「アラスターが昨日持ってきたんだ。あんたの血を抜くなら、糖分を摂れるものを置いとけって」
「アランさんが……」
その名を聞いて、ゆりの胸はぎゅっと掴まれたように痛んだ。ユークレースはそんなゆりを座ったまま横目で見上げるとぼそりと呟く。
「あいつ、本当にあんたのこと気に入ってるんだな」
「えっ?」
「……だって」
ユークレースは着替え終えたゆりに菓子箱を押し付けながら再びそっぽを向いた。
「彼がこんな風にまめに尽くす男だとは、僕は知らなかった。僕に対してはいつもそっけないくせに」
「…………」
ゆりにとってのアラスターはいつも優しくて、自分を気遣ってくれる人だった。
この街へ、神殿へ来たばかりで知り合いも少なかった頃、毎日のように訪れてはゆりを楽しませてくれた。
仕事を始めてからは、度々孤児院を訪ねて来て、子供達の相手をしてくれた。
夜会の日はゆりをエスコートして、文字通り盾となり導き守ってくれた。
そして今は――。
「アランさん……」
ゼリーを一粒口に放り込む。甘酸っぱくて、優しい味が口内に広がった。
“貴女が好きだ”
砂糖にコーティングされた宝石のように、きらきらと光る彼の想い。それを噛みしめ、飲み込むと、ゆりの目からは知らずのうちに涙が零れ出した。
「お、おい、なんで泣くんだよ?!」
機嫌を取ろうと思って菓子を与えたのに、それを食べたゆりが泣き出したのでユークレースは完全に混乱していた。
「は?? 意味わかんない、意味わかんないんだけど。とりあえず僕のせいじゃないから泣き止めって!」
ユークレースは慰めようと思ったのか、そしてそんな時どうするのが適切なのか知らなかったのか、向かいの椅子に座って俯くゆりの頭を無遠慮にバシバシと叩く。
ゆりは必死に涙を堪えようとした。だが、
「あーー。もう。だから女は嫌なんだ……!」
ゆりは暫くの間、ウロウロと落ち着かない様子で室内を歩き回るユークレースを腫れぼったい目で眺めながら、自分はこの世界でたくさんの優しさに包まれていたのだということに改めて気付かされたのだった。
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