第七十三話 何度でも
結局次の日、ゆりはナオトには会えなかった。朝早くに、昼に、夜にもナオトの部屋を訪ねたけれど応答がなかった。
「一方的に傷付けて、話も聞いてくれなくて、今度は会ってももらえないの? そんなの、あんまりじゃない……」
ゆりはそう扉の向こうにいるナオトに呼び掛けたが、そもそも部屋にいたのかもわからなかった。
二日目。朝孤児院への出勤前に訪ねたけれど、相変わらず返事はなかった。帰って来た時には、昼頃入れ違いで討伐に出たのだとテオドールに聞かされた。ゆりはただ、討伐中に呪印が発動したり、ナオトが怪我をしないかだけが気掛かりだった。
三日目。ナオトの帰還の報がもたらされることのないまま、ゆりはその日も孤児院へとやって来ていた。
「ゆりせんせい!」「ゆりせんせい!」
ゆりが孤児院の門を潜ったや否や、正面口から駆け出して来たのは二人の子供。北の村の生き残り――六歳のフィオルムと、四歳のフィアナだった。
二人は勢い良くゆりに抱き付くと、ひし、としがみつく。
「せんせい、今日は何してあそぶ?」
「せんせい、きょうはこじいんにとまっていってくれる?」
幾ばくかの時が経ち、見違えるように子供らしい健康さを取り戻した二人。しかしゆりが孤児院にいる間は片時も離れようとせず、常にゆりに付いて回った。特に妹のフィアナはゆりが帰る時には決まって泣き出し、ゆりの心を痛めていた。
「フィアナ、ごめんね。先生は、お泊まりはできないの。おうちに帰らなくちゃいけないのよ」
「どうして? せんせいもこじいんの子になって!」
「……先生の大切な人が、帰ってくるのを待っていてあげたいの」
「たいせつなひと? フィアナより?」
「その人は、私とフィアナとフィオルムを出会わせてくれた人よ」
「ぼく、わかるよ。勇者さまだ」
フィアナの前にしゃがみこんで諭していると、横でフィオルムが答えた。
「勇者さまがぼくたちを守って、だからぼくたちはせんせいといっしょにいられる。そうでしょ?」
ゆりは、フィオルム達にその事件について尋ねたことはこれまで一度もなかった。あまりに凄惨な出来事で、思い出すのも辛いはずだから。
ゆりが驚いてフィオルムを見ると、少年はきらりと瞳を輝かせた。
「勇者さまはぼくたちのまえに立って、一歩も下がらなかった。おっきいがいこつにかまれた時も、泣いたりさけんだりしなかった。だからぼくも、勇者さまみたいになりたいんだ。ゆりせんせいがいない時は、ぼくがフィアナをまもるよ」
「フィオルム……強いのね」
ゆりは少年の瞳に、燃える黄金色の魂が宿るのを見た。胸の奥から何かが沸き上がり、熱くなって、しゃがんだまま二人を抱き締めた。
「いつも、今も、勇者様はみんなを守るために戦ってる。とっても強い人なのよ。……でも、勇者様だって時には辛かったり、痛かったりするんだから。だからフィオルム、あなたがとっても強くなっても……。本当に苦しい時は、先生を。ううん、他の誰でもいいの。誰かを、頼ってね」
そう言って暫く子供の体温と鼓動を感じていたゆりは、やがて二人の手を握って立ち上がると、玄関へ歩き出す。
「お泊まりはできないけど、今日も沢山遊ぼうね」
そして、今。四日目のこと。
その日、空が白み始める時刻にナオトが討伐から帰着したと聞かされたゆりは、朝一番に彼の部屋を訪れていた。疲れて帰っているに違いないところへ押し掛けるのは気が引けたが、もしも彼に避けられているのなら、今会って魔力の譲渡を行わなければ呪印を御しきれないかもしれない。そう考えて彼の部屋の前までやって来ると、ずっと閉め切られていた部屋の扉が僅かに開いていて、中でナオトが眠っていた。
それは正しく死んだかのようだった。
仰向けにベッドへ倒れ込んでいるナオトは、革の半鎧も、ブーツすら身につけたままの姿だった。その片脚はベッドの外に投げ出されていて、顔色は明らかに悪い。
そしてベッドの下の床には神剣オスティウスが転がっており、鞘から僅かに刀身が覗いていた。
ゆりは慌てて枕元まで駆け寄ると、恐る恐るその頬に触れた。
大丈夫。温かい。きちんと胸が動き、規則正しい寝息が聞こえる。
ほっとしたゆりは、ナオトの頬を撫でると顔を上げる。そして自分の正面、その視界に入ったものに漸く気付き――戦慄した。
ベッドの脇の、白い壁。
そこに数え切れないほどの傷が刻まれ、ズタズタに切り裂かれていた。まるで苦しみから逃れるために掻きむしられたかのようなその跡は、明らかに獣によって付けられたものだった。
果たしてそれは、ゆりの身体に傷をつけた後だったのか、それとも以前のものなのか。ゆりにそれを確かめる術はなかったが、ナオトがたった一人、本能と呪いに抗い耐えながら夜を過ごしたのかと思うと、それだけで胸が潰れそうなほど苦しかった。
「こんな状態でも、勇者でいることだけは辞めないんだね。サイテーで、自分勝手で、いい加減なのに……。変なところだけ真面目なんだから」
“オレが勇者でなくなったら何も残らないよ”
ゆりは以前、ナオトがそんな呟きを残していたのを思い出した。
「初めて会った時から、ナオトはサイテーだよ。全然変わってない。いきなり『ヤラせて』とか言い出すし、人を問答無用で抱きまくら扱いして、こっちの言うことなんて全然聞いてくれないし、ふらっといなくなっちゃったり、初めてもらったプレゼントは謎の頭蓋骨で……」
ゆりはぽつぽつとナオトへの正直な気持ちを吐き出しながら、眠る彼の赤銅色の髪を梳いた。
「でもね、ナオトの瞳は、太陽みたい。眩しくて、宝石みたいにキラキラして、とっても綺麗で……。ずっと見ていたい」
サイテーなはずの彼は、いつの間にかゆりの心の中に棲み着いていて。
「私ね、ナオトとキスするといつも……胸がとっても苦しくなるの。胸が熱くなって、痛くなって、泣きそうなほど切なくて……。それからどうしようもなく幸せで、もう何もいらないよって……。そういう風に、なるの……」
ナオトの髪を撫でていたゆりは、次第に声を詰まらせてベッドの下に視線を落とした。そこには勇者オスティウスが女神サーイーから与えられた愛の証と伝えられる神剣が、無造作に転がっている。
ゆりは何の気なしにその柄の部分を握ってみようと試みたが、伝承通りまるで床に貼りつけられているかのように重く、少しの音を立てることすら出来なかった。
ゆりは柄から手を離すと鞘から零れ出た白金の刀身を見た。その眩い輝きに獣の姿のナオトの神々しい美しさを思い出すと、撫でるように優しく触れる。そして立てた小指をほんの少しだけ、刃の部分に擦らせた。
小指の先に薄い線が走って血が滲み出すのを確認したゆりは、それをそのまま眠るナオトの口の端にそっと差し入れる。やがて自分の血がナオトの喉を鳴らすのを見届けると、少しだけ安堵した。
呪印の力を抑え、少しでもこの勇者の夢見が良くなるように。
「ねえ、ナオト。アランさんにはね、ナオトの呪いを解くために色々助力してもらってるの。今、あなたの呪いを治すために特別な薬を作っているところなんだよ」
ナオトの瞼が僅かに動いたような気がした。
「だからね、もう少し、もう少しだけ待ってて欲しいんだ。それがあればきっと……あなたを助けられるから」
そう言って一旦息を吐ききると、柔らかい笑みを向けた。
「あのね、今度あなたに会って欲しい人がいるの。あなたがこの世界にやって来たばかりの時の私に希望をくれたように……。あなたに、勇者ナオトに救われている人は沢山いるんだよ」
“私はナオトを助けたい。
自信に溢れ、子供のように笑う、太陽みたいな
ゆりは見失いかけていた自身の望みを思い出した。
「だからナオト、呪いに負けないで。私は何度でも……あなたを受け止めるから」
今日もこの後、ユークレースの元を訪れる約束をしている。
ゆりはナオトの口から小指を引き抜くと、その形の良い口の端を優しく拭う。そして同じ場所へそっと口付けると、静かに部屋を後にした。
ゆりの気配が遠ざかって
「……ゆり」
傷付けることを恐れ、遠ざけ、己が想いに抗おうとしてみても。彼女はそんなことお構い無しに、軽々とその
そうして彼を甘やかし、あらゆる痛みを溶かしてしまうのだ。
“ナオトの瞳は、太陽みたい”
「――違うよ。ゆりが太陽なんだ。オレの世界はもう……。ゆりなしには、回らない」
ゆり、きみはオレの太陽。
きみはオレを照らし、導き、包み、裁く。
溢れるような愛しさも、震えるような幸せも、胸を焼く苦しみも。彼を彩る全てが、最早彼女なしには存在し得ない。
ナオトはひとり、ベッドの上で目元を覆った。
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