第七十二話 裏切らないで

 ナイフを手離したはずのテオドールの手が未だ震えているので、ゆりは床に座り込んだまま、傍らに膝をつくテオドールの頭を抱いた。


「テオくん、ごめんね。大丈夫。何もなかったよ」


 ナオトの付けた噛み跡が痛々しいゆりの白い肌。そこへ顔を寄せながら、テオドールは嫌々と頭を振り、独り言めいた言葉を吐き続けた。


「ゆりさんは綺麗なんだ。誰よりも綺麗なのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ……」



 私のせいでもある、とゆりは思った。

 ナオトの呪いを解くことばかりに必死になって、肝心のナオト自身をちゃんと見ていなかった。誰だって、身体を蝕まれば心も弱るのは当たり前なのに。

 神獣人だって傷つけば痛い。そう主張しておきながら、ナオトの強さに甘えていたのは自分自身なのだと。



 ゆりは涙が零れそうになるのを堪えた。そして明日、きちんとナオトと話をしようと心に決め、テオドールに笑って見せた。


「テオくん。心配してくれてありがとう。優しいテオくんに嫌な役をさせちゃったね」

「いいえ……。ぼくはもう、決めたんです。ぼくはゆりさんに、ずっと綺麗でいてほしい」

「私は大丈夫だから、あまり思い詰めないでね。……最近交換日記のお返事も書けてなかったから、余計心配させちゃったかな」

「それは……ゆりさんの時間が許す時で大丈夫です」

「そっか。ありがとうテオくん、いつも味方でいてくれて」

「はい。ぼくは絶対にゆりさんを裏切りません。だからゆりさんも、ぼくを裏切らないで」

「うん。そうだね」


 そんな会話を交わしながら、ゆりはよしよしとテオドールの頭を撫でた。

 この時ゆりは気付かなかった。テオドールの小さな異変には。




 テオドールが落ち着き、部屋へ戻っていったところで、ゆりは破り取られた衣服を着替え直すと自身の部屋の窓を開け放った。それは、いつの間にか決まっていた彼を呼ぶための合図。


 しばらくすると、控えめに四度、彼が扉をノックする音が聞こえた。


「エメ」

「何か用が、あるのか」

「うん。ちょっと聞きたいことがあって」

「奇遇、だな。オレも。……入るぞ」


 ゆりは久々に、白いローブのエメの姿を見た。

 以前は片時も離れずにゆりの傍にいたはずのエメは、最近何か用があるらしく姿を現すことが減っていた。


「なんか、久しぶりだね……?」

「そう? 聞きたいこと……何?」


 エメが文机の椅子を引き出して腰掛けたのを見て、ゆりは先程から部屋の床に転がっている銀のナイフを拾い上げた。それは、テオドールがナオトに向けたもの。


「このナイフ、エメのだよね? あなたがテオくんに渡したの?」


 エメはつまらなそうに自身の右手の爪を見ながらこくりと頷いた。その様子からあまりにも情が感じられなかったので、ゆりは思わず詰め寄った。


「なんで、こんなもの……! テオくんは子供だよ?」

「あいつは、子供じゃない。アンタだって、わかってる、はず」

「それは……」


 テオドールは十五歳。こちらの世界で言えばもうすぐ成人だ。


「オレは、覚悟を見せろ、と言った。本当に、守りたいならば」

「覚悟……?」


 ゆりのその問いに、エメは答えなかった。


「聞きたいことは、それだけ、か?」


 ゆりがナイフを持ったまま無言になってしまったのを見て、エメは立ち上がった。ゆりの手からナイフを取り上げると、それをローブの中にしまいながらゆりを見下ろした。


「こちらの質問にも、答えろ。――最近、どこで、何をしている」

「…………」


 ゆりは迷った。

 後ろめたいことは何もない。だが、アラスター達評議会側の関与についてはどこまで話して良いのかと。

 そんなゆりの心を見透かすように、エメは舌打ちした。



「旧王立図書館。魔道研究所。――オレが知らないとでも、思ったか?」



 そうだ、この人に隠し事なんてできるわけがなかった、とゆりはエメの本質しごとを思い出した。


「……ナオトの呪いを治したいの。だから、自分で調べたり、話を聞いたりしてるの」

「…………。評議会あちらに、つくのか? 馬鹿猫アイツのために」


 じろりとエメがゆりを睨む。善意で協力してくれているアラスター達を嫌悪するかのようなその物言いに、ゆりは思わず怒りが口をついて出た。


「そんなこと! 教会とか評議会とか、そんなの関係ない! 私はただ、ナオトを治したくて、」


 柄にもなく大声で捲し立ててしまったゆりの口を、エメの冷たい手が塞いだ。ゆりが驚いて口をつぐむと、エメはその手を離し、そっと人差し指を立てる。そしてゆりにだけ聞こえる声で囁いた。


「ユリ。教会ここは、オレの領分。教会ここにいれば、オレが、アンタを守れる。……でも、評議会あちらは、そうじゃない」


 静かに紡がれるその声音に、ゆりはエメの冷たい手に秘められた彼の優しさを思い出した。その手は、いつもゆりを繋ぎ止め、導くもの。


「ユリ、お願い。教会ここにいて。オレの、目の届くところから、離れるな」

「エメ……?」


 まるですぐ身近に危機が迫っているかのようなその口ぶりに、ゆりは狼狽した。諭すようなその声音には、ピリピリとした緊張の糸が張り巡らされている。



 だが、それでも。


 ゆりは悲しくなった。こんなに心配してくれている彼の忠告を、今だけは受け入れることができない。



「エメ……ごめん。今は、どうしても必要なの。少なくとも、ナオトの呪いがなくなるまでは。でも、私の部屋、私の帰ってくる場所はここにあるでしょ? ……それじゃ、だめ?」


「帰る場所……」


 ゆりの言葉を反芻したエメは、心を静めるかのように嘆息した。そして暫しの沈黙の後にこう切り出した。


「ユリ、手を出して」

「?」


 ゆりは言われるままに右手の平を前に出した。

 するとエメはローブの中から革紐のようなものを二本取り出し、そのうちの一本の留め具部分を持つ。そして突如、それをゆりの親指の先に突き刺した。


「痛っ! ……な、何?!」


 小さな針を刺されたような痛みがして、ゆりの親指からぷくりと血が滲み出た。

 エメは無言のまま、革紐の中央に填められた小さな石に血を吸わせる。一瞬だけ赤く光ったように見えたその石は、すぐに沈黙しただの黒っぽい石になった。そうやって、エメはもう片方の革紐にも同じことを繰り返す。


「エメ、これ、何……?」


 不審に思いつつも、エメを疑うという発想の欠けているゆりは抵抗しない。その従順さが心地好くて、エメはフードの奥で小さく笑った。


「これは、“手綱”だ」

「?」


 エメは革紐の片方を、自分の左腕に巻き付けた。


「そしてこれは、鎖」


 エメは銀色に輝く鎖――但し、三環しか連なっていない――を取り出すと、ゆりの後頭部に手を回した。ひやりと何かが首の後ろに触れ、金属がカチリと噛み合う音がする。


「え、何?」


 ゆりが慌てて自分の首の後ろを撫でると、「魔力殺し」に取り付けられた短い鎖はシャランと軽い金属音を立てた。


「ねえ、エメ、これ……」

「その鎖と、“手綱”は対だ。これがあれば、アンタの居場所がわかるように、なってる。……家畜にはお似合い、だろ」

「ええっ!?」


 つまるところGPSである。プライバシーも何もあったものじゃないとゆりは困惑したが、エメの性格からして外せと言ったところで絶対に聞き入れないだろう。

 それに、ここ最近のゆりの居場所と言えば神殿、孤児院、旧王立図書館、魔道研究所がほぼ全てである。エメがこれまでのゆりの行動をほぼ把握している以上、今更隠すようなことは何もない。



「……それでエメの心配事が減るのなら……」



 鎖やら手綱やら響きは散々であるが、エメが自分を心配してくれてのことならば受け入れるしかないと、ゆりは多少反発する自尊心を納得させた。


「アンタの行動は筒抜け、だからな。――あまり、

「!」


 冷たい侮蔑を含んだ後半の言葉はナオトとの口付けのことを指した台詞なのだろうと直感的に理解したゆりは、耳まで赤くなる。


 エメの紫の瞳と、ゆりの視線がかち合う。

 エメは舌打ちしながらそれを逸らすと、血の滲んだゆりの親指を摘まみ上げた。その指先からぷくり、ぷくりと小さな血の珠が現れるのを眺めると、そのまま――その白い指に吸い付いた。


「っ!?」


 ゆりの身体がびくりと強張る。エメはそれを無視するかのように、わざとらしく音を立てて血を舐め取った。

 ゆりの甘い血がエメの喉を潤せば、胸を焦がすような興奮と共に、淀んだ感情が洗い流されてゆく。



 エメの行動の真意を測りきれずにただ戸惑いがちにそれを見つめていたゆりは、しばらくしてあることに気が付いた。



「……っていうかエメ……今その革紐の方、二本用意してなかった? もう一本はどうするつもり??」

「…………。予備、だ」

「ほんと?? 本当に??」

「家畜は、知らなくていい」


 エメは自身の左腕を見た。

 そしてその手首に巻かれた“手綱”を見ながら、これが役に立つ日が来なければいい、とらしくもなく女神に願を掛けるのだった。

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