第七十一話 わからないんだ

 アラスターと別れたゆりは神殿の廊下を覚束ない足取りで歩いていた。



 “貴女を一人の女性として、愛しく思っている”


 “ゆり、貴女が好きだ”



 アラスターのその言葉はゆりに衝撃を与えたが、同時に思い返せば思い返すほど、その言葉が事実なのだと実感せざるを得なかった。


 当たり前だった。アラスターはずっと前から、その手の、その瞳の端々に自分の想いを乗せていたのだから。

 直接の言葉はなくとも、今までの彼の言動を思い返せば知らなかった、わからなかったとどの口が言えようか。ゆりはその“気付き”に蓋をして、見ない振りをしていたのだ。私なんかが、誰かに愛されるはずがないと。


 両親から真っ直ぐな愛情を注がれることのないまま大人になってしまったゆりは、愛されるということにひどく臆病で、また自分が誰かに愛されるという可能性を、知らずのうちに自ら捨てていた。



 ナオト。アラスター。フレデリク。



 彼らはゆりに愛をくれたけれど、心のどこかでそれを信じきれていない自分がいた。

 何故。どうしてこんなにちっぽけで、何もない自分を、と。


 だがそれは、なんと愚かで……傲慢な考えだろう。

 これまで相手が差し出してくれていたであろう気持ちを、自分は知らぬうちに踏みにじっていたのだ。きっと、何度も、何度も。

 それはとても恐ろしいことだと、ゆりは震えた。




 ゆりが漸く戻ってきた自室の方を見遣ると、その扉の前に背を預けて立つ一人の男がいた。


「……ナオト? おかえりなさい。討伐終わったんだね」

「ゆり!」


 ゆりの姿を認めた途端、待ちきれないとばかりにその腕を掴んで引っ張ったナオトは、扉に背を押し付けるとそのままゆりの唇を奪った。

 咄嗟のことに呼吸もできないゆりの唇を食んでぺろりと舐めたナオトは――突然、その動きを止めると耳を震わせた。



「……クソ犬アーチボルトの匂いがする」



 現在、呪印の影響で並の獣人程度の嗅覚しか持たないナオトは、ゆりをその腕に閉じ込めて初めて、ゆりの纏う他の雄の匂いに気が付いた。

 次の瞬間、ナオトはドカンと扉を蹴り上げると、部屋の中へ乱暴にゆりを放り込んだ。


「……痛……!ナオ、ぁうっっ!」


 ゆりが床に尻餅をついて声を上げたかと思うと、すぐさまナオトが覆い被さり、その肩を掴んで強引に床に押し倒す。


「最近、昼間いつもいない。あいつと会ってるの?」

「それは、……っら、……かはっ」


 ナオトが首を押さえ付けたので、ゆりには言い訳すら許されなかった。ゆりが口をぱくぱくと苦しげに動かすとナオトは力を弛め、その首元で鈍く光る『魔力殺し』の首輪を指でなぞった。


「わからないんだ」


 そう呟いたナオトの声には痛切な響きが込められていた。


「ゆりの匂いが抑えられてて、オレは鼻が利かない。……だからわからない。ゆりが何処にいるのか、誰といるのか、ゆりがまだ……

「……!」


 神獣人であればその嗅覚で聞かずともわかるはずのことが、今のナオトにはわからなかった。それは、普通の人間にとっては当たり前のことだったが――これまで知れていたことを急に覆い隠される恐怖に、ナオトの心は摩耗していた。

 ナオトの黄金の瞳がぎらぎらと妖しく光る。そしてそれに呼応するかのように、右肩の呪印が静かに、だが確かに明滅を始めた。



「ゆり、確かめさせて。オレに全部ちょうだい。血も、内臓も、全部――――。ゼンブクワセテ」


「!?」



 最後の言葉はまるでナオトの声ではないような恐ろしげな響きで、ゆりは金縛りにあったかのように動けなくなった。そして次の瞬間、ナオトは性急な手つきでゆりの服を掴むとそのブラウスをボタンごと力任せに引き千切った。


「っ!? いや! ナオト、痛っ、やめて!」


 本能が恐怖し拒絶するゆりの両腕を片手で押さえ付けると、ナオトは露になった白い肌に喰らいついた。


 その痛みは、およそ愛の悦びのために与えられるものではなかった。噛みつかれた胸元にはくっきりと歯形が付き、赤い血が滲む。するとナオトはその柔らかい隆起を力任せに掴み、一心不乱に流れ出る血をすすった。


「痛い、痛いよ……」


 じゅうじゅうと音を立てしゃぶると、肌が鬱血して痛々しい痕が拡がる。ナオトはまるでその赤い華の虜となったかのように、また噛み付き、啜り、ブラウスの破れ目から零れ出たゆりの素肌のあらゆる箇所に喰らい付いてその新雪を蹂躙した。

 ゆりは必死に首を振って抵抗する。すると視界の端、赤銅色の髪の向こうに、自分の腕を押さえ付けるナオトの右肩の呪印が僅かながら明滅するのが見えた。



 “呪印は魂に刻まれた呪いだから。魂が――心が不安定だと、呪いは容易くそれを食らう”



 今日ユークレースにそんな忠告を受けていたことを思い出したゆりは、ハッとしたようにナオトの名を呼ぶ。


「ナオト! ナオト!」



 ゆりが切羽詰まった声でばたばたと暴れると、滲んだ血を啜るナオトの顔が一瞬ゆりの体から離れ、目が合った。


 ――それは、獰猛な捕食者の瞳。


 しかしゆりは恐れることなく目一杯頭を持ち上げると、挑むようにナオトに口付けた。


「……!」


 ナオトの両手の拘束が僅かに弛む。自由になった手で素早くナオトの顔を固定するように抑えると、ゆりはその口内に舌を差し入れ、押し戻されぬように絡めながら唾液を流し込んだ。


 いつもナオトがそうするように。

 舌でねぶり、口内に這わせ、必死にゆりが主導権を握ったまま口付けを交わしていると、いつの間にかゆりの頭にはナオトの手が添えられている。ナオトはゆりの舌に応え、いつものように心溶かすキスを返した。


「ゆり……ゆり」


 ナオトの声に呼応するように呪印は沈黙し、ゆりの頬に触れる手は優しかった。



「ハァ、ハァ、ゆり、も…………っ、ぁ、もう、いいから」



 ナオトはすがるように唇を押し付けてくるゆりから顔を離すと、覆い被さっていた身体を持ち上げようとした。

 ――しかしその瞬間。


「!」


 ナオトの頬のすぐ横で、鋭い銀の切っ先が輝いた。


 それは、エメのナイフ。

 そしてそれを持つのは――憎悪の混じる面差しでナオトを見つめるテオドールだった。



「ナオト様、今すぐゆりさんから離れて下さい」


「……言われなくても」



 ナオトは敵意を見せるテオドールを睨みつつ、だがナイフを向けられていることなど全く気にかけないかの様子でひょいと立ち上がる。

 テオドールは警戒を弛めず、震えるナイフをナオトへ向けたまま叫んだ。


「早く! 早く部屋を出て行って下さい!」

「わかってるっつうの。――――ゆり、ごめん」


 ナオトは背中越しにそう告げると、そのまま振り返ることなく部屋を出て行った。


「ゆりさん! 大丈夫でしたか!?」


 ナオトが消えた瞬間、テオドールはナイフを投げ捨てるとゆりの元へ駆け寄った。


「うん。大丈夫、大丈夫だから……」


 今にも泣き出しそうな顔で自分のローブを剥き出しのゆりの肩にかけるテオドール。その言葉をどこか遠くに感じながら、ゆりはナオトの出て行った部屋の扉を眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る