第七十話 貴女が望むなら
アラスターがゆりを迎えに再度ユークレースの研究室を訪れた時、ゆりが細い管を腕に繋がれ血を抜かれていたので彼は仰天した。
ゆりとユークレースとの話し合いの結果、これからゆりは数日おきに研究所を訪れて血を提供することになったという。
「そんなに頻繁に血を抜いて、大丈夫なのか?」
「さあ」
「フラハティ貴様……! ゆりをなんだと」
「私がお願いしたんです」
掴み掛からんばかりのアラスターを言葉で制したゆりは、椅子にもたれたまま首を左右に振った。
多少無茶なのはわかっている。だが、ゆりはどうしてもこの計画を早く完遂させたかった。
「ゆり……」
「貧血には甘いものがいいんですって。アランさん、帰りに何処かおいしいお店に連れていってもらえませんか?」
そう言って、ゆりはにこりと笑った。
そして、その言葉通り。
「おいしい! しあわせぇぇ…」
そう言ってうっとりと目の前に並べられたケーキを頬張るゆりに、アラスターの顔は綻んだ。
ここは中央地区の端に最近オープンしたばかりのパティスリー。ゆりの願い通り、アラスターが連れてきたその店は新進気鋭のパティシエの手になる話題店だ。
ガラスケースの中に並べられた色とりどりの
「おいしい……でも絶対太っちゃうなあ……」
「貴女は少し太った方がいいくらいだ」
アラスターは静かに紅茶のカップを口を付けている。淡いブルーのギンガムチェックのクロスの掛けられた丸テーブルに、二人は向かい合って座っていた。
カントリー調の可愛らしい内装で統一された店内は女性客が多く、皆が皆先程からちらちらとアラスターに視線を送っている。
ゆりはできるだけそれを気にしないようにしつつ、クラッシュされたジュレが輝くベリーのタルトに手をつけた。
「アランさんと一緒にいると、甘やかされてぶくぶくになっちゃいそうです」
「少なくとも、今日失った血の分くらいは取り戻しなさい」
「うう、悪魔の囁き……! でもおいしいから食べちゃう!」
今日失った血よりケーキ二個のカロリーの方が絶対に多いと思いながら、ゆりは二つ分の幸せを噛み締めた。
「厄介者の分際でこんなこと言うのは失礼だってわかってるんですけど……神殿での食事って、本当にシンプルで。ちょっと物足りなく思ってしまうんですよね」
ミルクたっぷりの紅茶を飲みながら、ゆりは食傷気味に呟いた。
神殿の食堂では茹でた芋や豆、固いパンが主食だ。味付けもシンプルで、バリエーションが少ない。
アラスターは頷いた。
「清貧を信条とする神官と同じ食事を摂っていれば……まあそうだろうな」
「だからアランさんが時々お菓子を持って会いに来てくれるのがすっごく楽しみで」
「まるで俺より菓子の方が待ち遠しいというような言い草だな」
「あ……! そういうつもりじゃあ」
「冗談だ」
アラスターがティーカップを傾けながら口の端を持ち上げたので、ゆりもつられて笑顔を見せた。
「アランさんはどうしてこんなに色々おいしいお菓子のお店を知っているんですか?」
アラスターは、神殿にゆりを訪ねる時はいつも必ず菓子を土産に持ってくる。様々な店の、様々な品を。それはゆりに気に入ってもらうためのアラスターのリサーチの賜物なのだが……その事実を明かすのは、堅物で知られる彼にとっては少々気恥ずかしかった。
アラスターは咳払いをひとつすると、敢えてゆりの質問の主旨から少し外れる答えを返した。
「ああ、うん。この店のオーナーは、アーチボルトの屋敷の料理人の子息なんだ」
「へえ~! じゃあ、お知り合いなんですか?」
「そうだな。歳が近いから、幼い頃は共に遊んだこともあったな」
最後に本人と顔を合わせたのは十年以上前だが、この店のことは今もアーチボルト家で働いている父親から是非に、と頼まれている。
「ふふっ。アランさんの子供の頃かあ。きっとかわいかったんだろうなあ」
無邪気にそう言ったゆりに、アラスターの心は少しだけ波立った。
「異様な子供だったさ。警戒心が強く、人を寄せ付けなかった。見た目も……兄も妹も母譲りの銀髪だが、俺はそうではなかった」
「それって……」
「神獣人だからな」
アラスターは事も無げに答えた。
同族同士の
この話をすると、大抵の人間は気まずそうに押し黙ってしまうか、憐れみの目を向けてくる。
だが、そのどちらでもなく、ゆりは笑った。
「この間の夜会でヒューゴー様にお会いした時、ヒューゴー様がにこりと笑いかけて下さったんです。……ふふ、その時ね、アランさんに似てるなあって思ったんですよ。――だって、目がくしゃりと細まって、その様子が…………。アランさんが笑った時と、同じだったから」
「
ゆり以外の他人にそう言われても、アラスターは信じなかっただろう。
母であるエミーレは事あるごとに、「貴方は父さまに似ています」と幼いアラスターに言い聞かせた。それすら彼は、神獣人である自分を気遣った母の優しさなのだろうと受け止めていた。
だが、綻ぶ口元を隠すように手を遣りそっと教えてくれたゆりの言葉は。アラスターの心にずしりと降り、重なった。
「私の育った家は、お世辞にも仲の良い家庭とは言えなくて。アランさんのお宅は皆さんとっても仲が良いんだろうなっていうのが伝わってきて、羨ましいです」
それもまた、何度も他人に言われたこと。
アラスターは家族としての彼らの愛を疑ったことはなかったが、言い知れぬ疎外感が無くなることはなかった。それに何より、その愛を無条件に受け入れてはならないと思っていた。
――何故なら、自分は
だが、どうしてだろう。彼女に言われると、胸が温かくなるのは。
「貴女が望むなら……。家族になれる」
「?」
アラスターは向かいに座るゆりの手に触れた。不思議そうな顔をするゆりに、アラスターは自身の薄金の瞳を真っ直ぐ向ける。
「貴女が、アーチボルトの家」
「アラスター様っ!! お越し下さりありがとうございます!!!」
突如異様に通りの良い声で挨拶されて、アラスターとゆりは固まる。アラスターの言葉を遮って二人のテーブルの前に現れたのは、栗色の髪の青年。この店のオーナーパティシエで、アラスターの昔馴染みだった。
「……ロシオ。お前は昔から――――変わらないな」
アラスターはハァとひとつ溜め息をつくと、ゆりの手を離し、目元を抑えて青年を見た。
幼い頃から神獣人として恐れ敬われていた彼に臆することなく接してくれた数少ない友人の一人。笑みを絶やさずこちらを見つめてくる青年ロシオは昔と変わらず――――明るくて、空気の読めない男だった。
時刻は既に夕刻。
アラスターの馬に同乗した二人は神殿の前に着くとその背を降りた。
「アランさん、今日は一日ありがとうございました。ユークレースさんの協力があれば、きっとナオトを元に戻すことができると思います」
アラスターの手を借りて地に足を付けたゆりは、そのまま膝を折って貴族の礼をした。
「貴女の血を使って、
「あの、それは……もちろんそうなんですけど」
その台詞を肯定されてショックを隠せないアラスターを前に、ゆりはもじもじとした様子で続けた。
「私、ユークレースさんにお願いしたんです。作るなら、同じ薬がもう一つ欲しいって」
「それは、どういう……?」
「アランさんが以前、言っていたから」
ゆりは俯きがちに視線を落とすと、体の前で握られた自分の両手を見た。
「『自分が怖い』『自分が獣に近付いていくような気がする』って――。そんなこと、ないと思うけど。でももしそうなってしまった時、多分、薬があれば治せるから。たとえ使うことがなくても、それがあれば安心できるかなって。アランさんのお守り代わりになればいいなと思って……」
「ゆり……」
「私の血でできた薬なんて気持ち悪いかもしれないですけど……。完成したら、もらってくれませんか? ――アランさんだって、私の大切な人だから」
ナオトもアラスターも、どちらも大切な人。
そんなゆりの思いは、アラスターの心を癒し、同時に締め付けた。
「貴女は俺の、大切な友人だ」
「はい」
「だがそれ以上に……貴女を一人の女性として、愛しく思っている」
ゆりの目が驚愕に見開かれるのを見て、アラスターは自嘲気味に笑った。
「ふ。やはり、な。散々態度で示していたつもりだったんだがな……。――もう、貴族めいた駆け引きをするのはやめることにする」
通常、貴族の間ではあまり直接的に思いを口にすることは好まれない。文や、或いは有名な戯曲や伝承の一説を用いて。教養と慎み深さを示すことこそ美徳とされてきた。
彼はその伝統をまどろっこしいと思いながらも、突き放せずにいた。己を抑制し、律し、努めて紳士であろうとした。既にゆりを前にすると大分綻びが出てしまっていたけれど。
――――いや、本当はそうではない。
自分の想いを打ち明け、晒すことを恐れていただけなのだと今ならわかる。
自分は欲にまみれた獣で、家族すら食い殺す愚かな狼なのだと知られることが怖かった。
だがゆりは、そんなことで自分を拒絶するような人物ではない。そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。
アラスターはゆりの手を取り跪こうとして……いや、そうじゃないと思い直すと立ったまま彼女の身体を捕らえ、抱き締めた。
「ゆり、貴女が好きだ」
絞り出すような低い声は、ゆりの胸を静かに貫き、焦がした。
遠くから、一日の終わりを告げる時計塔の鐘が鳴る。それを追いかけるように、教会の鐘楼の鐘も打ち鳴らされた。
二本の鐘の
「今すぐにとは言わない。勇者殿の件が解決したら……。――神殿を出て、俺のところへ来ないか」
二人の背後、夕日に照らされた神殿を染めるは――――情熱の赤。
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