第五十七話 好き

 礼拝の時間が終わったばかりの午前。

 ゆりが礼拝堂の扉を開けると、そこにはフレデリクがいた。



「やあ……来てくれたね。俺の天使」



 そう言ってゆりを出迎えたフレデリクは、どこか寂しげだった。

 振り返りゆりの姿を見たフレデリクは、ゆりの痛々しい姿に仰天する。


「どうしたんだい?! その怪我は」

「あはは、えっと……転んじゃって」


 ゆりは左腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、白い三角巾で吊っていた。どう見ても転んでできた怪我ではなかった。


 その答えを聞いて、フレデリクは今日が負け戦であることを確信した。彼女が、自分の心の内をフレデリクに打ち明けることはないのだとわかってしまったから。



「念のために聞くけれど。……俺の妻になって、ミストラルに一緒に来てはくれないか?」



 ゆりはそれを聞くと、何度も心の中で練習してきた言葉を口に出すため深呼吸した。


「ごめんなさい、殿下。私は、行けません」


 随分はっきりと言われたな、と取りつく島のないゆりの言い様にフレデリクは嘆息した。


「……理由を聞いても?」

「私が……人間として、至らないからです」


 私がもし、王子の言葉を素直に受け取れる純粋な性格だったら。王子の元へ飛び込みたいと思える情熱的な性格だったら。王子を愛せる、優しい性格だったら。


 ゆりは自分が人間として不完全だから、王子の言葉を受け入れられないのだと思った。

 だが、その言葉にフレデリクは顔をしかめた。


「人間として至らない? 完璧な人間など、この世界にいやしない。ゆりがどんな人間でも、俺はゆりを愛するよ」

「それでも……ごめんなさい」


 ゆりの頑なな態度に、フレデリクは俯いて頭を振った。


「他に好きな男がいるとはっきり言われた方が、まだ良かったな」


 その言葉にゆりは目を丸くした。

 フレデリクはアラスターのことを言ったつもりだったが、まったく何を言われているかわからないと言った調子のゆりを見て面食らう。


「なんだ。想像もしてなかったって感じの顔だな」


 ゆりは無言でこくりと頷いた。


 ――好きな男。


 考えたこともなかった。自分が誰かを好きになるなんて。

 でもそう言われた時、ゆりの中にたった一人の姿が浮かんだ。



 “オレは、ゆりが好き。 ゆりが、すきなんだ……”



 瞳を揺らし戸惑いの表情を見せたゆりに、フレデリクはこれ以上は無駄だな、と白旗を揚げる。


「……わかった。俺の敗けだ。素直に帰るよ。だけどしばらくは引き摺りそうだ。それくらいは、許してくれるだろ? もしも気が変わったら……いつでもミストラルに来て」


 フレデリクはゆりの両肩に手を置くと、その頬に別れのキスを送った。


「さようなら、ゆり。俺の天使……だった人」




 フレデリクが失意のまま礼拝堂を出て中庭を歩き出した時、向こうから一人の男が風のようにやって来て、フレデリクとすれ違った。



 ――勇者ナオトだ。



 フレデリクはその男の名を知っていた。

 勇者ナオトは、フレデリクがモルリッツに遊学していた時から既に、この神殿の住人だった。但し普段はほとんど居着いていないらしく、まともに顔を見たことはなかったけれど。


 勇者ナオトはフレデリクに一瞥もくれず、今彼が出てきたばかりの礼拝堂に吸い込まれていった。



 すれ違った瞬間、フレデリクははっきりと気が付いた。

 勇者ナオトの瞳の色。太陽のように輝く黄金を、フレデリクはたった今、ゆりの両耳に輝いているのを見て来たところだった。


 そう。最初から、ゆりの顔を見ればそこに答えがあったのだ。



「……とんだ一人芝居だな」



 フレデリクはそう独り言ちると、天を仰ぎ目元を覆った。




「ゆり!」


 礼拝堂に飛び込んだナオトは、ゆりの名前を呼んだ。


「……ナオト?」


 女神像の前に立つその姿を見た瞬間、ナオトはゆりを捕らえて思いきり抱き締め、その腕の中に閉じ込めた。



「ゆり、行かないで。オレをひとりにしないで。オレの、側にいて」



 違う。


 ナオトが言いたかったのはそんな言葉じゃなかった。ただ純粋に、ゆりを想う言葉を伝えたかった。

 けれどその姿を見て、それが自分以外の誰かのものになってしまうかもしれないと思った時、その口から出てきたのは情けない哀願の言葉だった。


 ただ、それでも。

 ただその言葉だけでゆりの心は満たされた。

 ゆりは自分の首筋に顔を擦り付けすがり付いてくるナオトを抱き留めようとしたが、左手が動かないので上手くいかない。そのうち、ナオトがあまりに必死にゆりを抱き締めるのでゆりはバランスを崩して礼拝堂の床に尻餅をついてしまった。

 しかしそれでも、ナオトはゆりの肩口に顔を埋めたまま離す様子はない。

 ゆりは右腕をナオトとの身体の間からなんとか引き抜くと、ナオトの背に回した。


「どこにも、行かないよ」


 そう言って控えめに腕に力を込めると、ナオトの小さい声が聞こえた。


「本当に?」

「本当だよ。――だって、ナオトが『おまじない』をくれたから」



 “他の誰のお姫様にもなっちゃダメ”



 既にゆりの右手から消えたはずのナオトのおまじないは、ゆりの心の一番深い部分に焼き付き、消えない跡になっていた。

 一度自覚してしまえば、気付かなかった頃にはもう戻れない。



「ねえゆり、オレはゆりが好き」

「うん」

「好き」

「うん……」



 “私も。”



 最後の部分ははほとんど吐息だったが、神獣人のナオトがそれを聞き逃すはずがなかった。


「ゆりが好き、なんだ……」

「うん……。んっ……!」


 名付けられた感情を確かめるように。

 幾度となくその言葉を呟いたナオトは、座り込んだままのゆりの背中を礼拝堂の長椅子の袖に押し付け、口付けた。何度も何度も角度を変えて、これまで伝えられなかった想いの分まで取り返すように。


「ふ………ぅん、んっ………ナオ、ト」


 ゆりが吐息の合間に苦しげにナオトの名前を零す。それだけでナオトの胸は締め付けられ、どうしようもない程愛しさが募った。


「ゆり……すき。すき」


 ナオトはゆりに応えるようにその名を呼び、漏れ出す息を奪い取った。二つの呼吸は重なり、溶けて、その熱は二人の思考を奪い、ただお互いだけを感じる世界を作り上げていく。



 どのくらいそうしていただろうか。ゆりがギブアップとばかりにナオトの胸を叩いたので、ナオトは名残惜しそうにその唇を離した。

 ゆりの顔は真っ赤に上気し、口許はだらしなく濡れ、潤んだ瞳はぼうっとナオトを見つめている。



 あ、これはもうだめだな、とナオトは自分の理性にさよならを告げた。



「ゆり、お願いがあるんだけど」

「なに……?」

「ヤラせて」

「……………………は?」



 とろんとしていたゆりの瞳が、言葉の意味を理解して次第に怒りでわなわなと震える。しかしお願いに必死すぎるナオトは気が付かない。


「ね、ね、すっごく良くするから」

「ナオト……。あなた今、自分がサイテーなこと言ってるって自覚ある?」


 ゆりの凍りつくような視線に、ナオトは本当に困ったように耳を垂らした。


「なんで。どうして。どう言ったらいいの」

「どう言ったってダメ!! ……もうっ! 帰るよ、ほら!」



 ゆりのこと全部欲しい。

 全部感じて、全部あげたいんだ。



 そういう時、なんと伝えればいいのかナオトはわからなかった。

 ゆりがぷりぷりと怒りながら礼拝堂を出て行くと、ナオトも慌ててそれを追い掛ける。どこか嬉しそうに尻尾を振る彼の右肩では、不死の王アンデッドキングの接吻の刻印が不気味に沈黙していた。




 第二章 終 (次章へつづく)

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