第四十九話 求めれば求めるほど

「好きだ」とか「愛してる」とか「付き合って」だとか。


 せいぜいゆりに想像できた愛の言葉はその程度だった。

 だがフレデリクはこの場でゆりにした。

 王族が、公衆の面前で跪き、貴族でもなんでもない自分を己が妻にと望んだのだ。


 ――それはつまり、ノーの選択肢はない。


 ここでゆりが否と答えれば、ミストラルの威信は丸潰れである。フレデリクは国と自分のプライドを賭けて、一世一代の勝負に出たのだった。


 “もし相手に何か問われても――決して、イエスともノーとも言ってはいけない”


  ゆりの胸に先程のアラスターの言葉が去来する。



 もしやアラスターは、最初からこの事態を想定していたとでも言うのだろうか?

 どうすればいい。なんと言って切り抜ければいい?

 そもそも、全てのカードを投げ出して真正面から自分を求める一途なこの想いを――

 自分に否定する権利があるのだろうか?



 一人の人間が全身全霊でもって自分に想いを差し出してきた事実に、その重みに、ゆりは震えた。


「ゆり、お願いだ。……イエスと言って」



 フレデリクは哀願めいた声音でそう呟くと、掲げたゆりの右手を引き寄せ口付けようとした。

 その瞬間。



 バチンッッ!!



「っ!?」


 ナオトの「おまじない」が発動し、フレデリクは思わずその手を離してしまった。



 “ゆりは今日、他の誰のお姫様にもなっちゃダメ”



 ナオトの言葉がゆりの頭に響いた瞬間、人垣を掻き分け現れたアラスターが二人の間に飛び込んだ。


「フレデリク殿下、恐れながら――。本日、ゆり嬢は教会から我々評議会に託された身。依って、如何様な御答えも軽々しくはできませぬ。つきましてはこの件、日を改めて頂きたく――――


 御前、失礼致します!」


 そう言ってゆりを横抱きにすると、あっという間に会場を走り抜け、風のようにテラスから飛び去り夜の庭園へと消えてしまった。




 走って、走って、走って。


 ゆりを抱いたまま広大な宮殿の庭園を駆け抜けたアラスターは、苦しげに身を捩り唸り声をあげたかと思うと、突然発光して一匹の巨大な狼に変貌した。

 そうして「原初の獣」となったアラスターは、やや乱暴にゆりの身体の下に頭部を滑らせると、その背にゆりを乗せて再び夜の闇を走り出した。


 ゆりはただ振り落とされないように、その黒い背中にしがみつくことしかできなかった。



 走り続けた黒狼アラスターはやがて、宮殿の更に北東、城壁を抜けた先にある湖畔にたどり着いた。

 ようやく歩を止め、その湖面のやや手前にゆりを降ろす。そしてとぼとぼと湖に近付くと、水面に映る自分の姿を見ていた。

 湖には、アラスターの瞳と同じ薄金の満月が浮かんでいる。


「アランさん……?」


 ゆりはその場に座り込んだまま、後ろ姿の狼に声をかけた。



 グルルルル……

『俺は、あの男を……食い殺そうとした』



 狼の唸り声に交じり、アラスターのか細い声が聞こえた。

 それは、空気中の魔力を伝ってゆりに流れ込んだ彼の声だった。


「大丈夫――。食い殺してなんか、いませんよ」


 聞こえるとは思っていなかったのだろう。自分の呟きにゆりが応えたことに、狼は驚き、びくりと身を竦ませた。


「私、どうしたらいいかわからなくなっちゃって……。固まってしまってたところを、アランさんが助けてくれました。ありがとうございます」


 ゆりはドレスの裾を持ち立ち上がると、そっとアラスターに近付き、その横に再び座り込んで薄金の瞳に視線を合わせた。


『ゆりは、あの申し出を、受け入れるつもりだったか?』


 あの申し出とは、フレデリクの求婚のことだろう。

 アラスターの唸り声にゆりが困った顔で小さく首を横に振ると、狼は地面を向き、嘆息した。


『何かしらの意思表示はしてくると思っていたが……まさか求婚してくるとは。俺の考えが甘かった。すまない』

「アランさんの謝ることじゃあ……」



 グルルルルゥ……

『俺は、自分が怖い。求めれば求めるほど自分が獣に近付いていくようで……』



 アラスターの求めるものが何なのか、ゆりは知らなかった。だが“獣に近付いていく”という言葉は、否定しなければならないと思った。


「アランさんは冷静な人です。先程の対応だってきちんと筋が通っていたし、私をあの場から遠ざけようと思ったら……ああするしかなかったと思います。私の方こそ、嫌な役をさせてしまってごめんなさい」


 狼の頭に手を乗せようとすると、一瞬怯えたように身を引かれた。しかしゆりはその手を止めなかった。

 やがてゆりの手の重みを大人しく受け入れたアラスターの様子に、子供にするみたいで失礼かな、と思いつつ、今は狼だからいいかと自分を納得させ、ゆりはその手で黒い毛並みをわしわしと撫でた。

 左手を鋭い牙が覗く口元に添えて狼の毛並みを撫で回していると、しばらく瞳を細めてされるがままになっていたアラスターは、一歩前に踏み出し、その息がゆりの鼻にかかるほど近くに顔を寄せた。



『ゆり、俺は幼い頃、初めてこの姿に目覚めた時……人を殺した。

 ――それは、その時たった五つだった――俺の、兄だ』


「!」



 あの明るくて理想の家庭に見えたアーチボルト家に、そんな悲劇があっただなんて。



 ゆりはあまりに重すぎるその事実に衝撃を受けた。


 この黒い狼は、自分の犯した罪を、本来なら無条件で受け止めてくれるはずの家族にゆるしを乞うこともできないまま……ずっと己の内に抱えているのだ。


 ガルルルルルルァ……


 牙を見せ威嚇するように喉を鳴らしたアラスターは、自分が怖いか、とゆりに問うているようだった。



「大丈夫。大丈夫――」



 何を言っても慰めにはならない気がして。

 ゆりはひたすらそれだけを呟くと、狼の黒い体を抱き締めていた。

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