第五十話 加減はできない

 その後、アラスターは狼の姿のまま、ゆりを神殿まで送り届けた。

 そして『もう少し走り回りたい気分なんだ』と、そのままの姿で夜の闇に紛れて消えた。


 ゆりは物憂げな様子のまま、今日自分にかけられているすべての「魔法」を解くため、テオドールが用意していてくれた客室の湯に浸かった。



 神獣人。

 伝説的な存在のはずのアラスターとナオトは、そのどちらも、自分の中に眠る「原初の獣」の姿を良しと思っていないようだった。

 その孤独は彼らの超人的な力の前にあるもので、所詮何の力も持たない自分がなんと励ましの言葉をかけたところで、それはただの慰めに過ぎない。

 だが、そんな慰めでもし彼らの心がほんの少しでも軽くなるのなら……。


 寄り添いたい、とゆりは思った。



 そう言えば、不死者アンデッドの討伐に行ったナオトは無事なのだろうか。

 不死者アンデッドが発生したという件の村は通常、 人の足であれば二日はかかるとテオドールは言っていた。ナオトの足が如何に早くとも、その戦況がこちらに伝わるのはまだ先のことになりそうだった。



 ナオトが、泣いていないといいな――。



 以前、血塗れで魔物を倒すナオトを見ていたゆりは、ナオトがまた無茶をして、自分を傷付けていないかが気掛かりだった。


 ゆりはこの世界の女神にナオトの無事を祈ると、あっという間に睡魔の鎌首に意識を刈られ、飲み込まれた。




 そして翌日。

 太陽は中天にかかろうかという昼間。


 ゆりは自室のベッドにうつ伏せに縫い付けられ、あえかな息を洩らしていた。


「あ……エメ、お願い。優しくして……」


「うるさい……。加減は、できない」


 やや乱暴に言い放った男――エメは、馬乗りになるとゆりの身体をベッドに押し付け、シーツの海に沈めた。

 ギシ、ベッドが軋む音を立て、ゆりの背の真ん中を押した彼は、左腕を掴むと捻り上げる。


 ぐいぐい。



「はわ~~~、いでででで、それ効くぅ~~」



 持ち上げた左腕を肩甲骨に引き寄せると、ゆりから間の抜けた声が上がった。




「エメ、ありがとう!なんかすっごく身体が軽くなった気がする!」


 ベッドに腰掛け右肩をぐいんぐいんと回しながら、ゆりは軽快な調子でエメを労った。


「……そ」


 対するエメは文机の椅子に腰掛けると、頬杖をついていた。彼は最近、ゆりの前ではこのようにリラックスした姿を見せることが増えた。しかし、フードの中のその表情は複雑そうである。


 夜会が終わり、ゆりは今日は一日予定を入れていないらしい。

 昨晩の緊張と疲労で身体がガチガチだと言うので『閃光』流に整体してやったのだが。

 ベッドに押さえ付けて彼女の漏らす弱々しい吐息を聞いた時、エメは何とも言えない変な気分にさせられていた。



「はぁ……。でも本当に、色々あって疲れたな」



 教導セグヌンティリエとの面会、アーチボルト夫妻との出会い、フレデリクからの突然の求婚に、狼に変貌したアラスターとの対話。昨夜、ゆりにはわずか数刻の間に様々な出来事が怒濤のように押し寄せていた。

 それを何とか整理して反芻しているらしきゆりに、エメは「それで、」と口を挟んだ。



「……それで、ユリは王子と結婚、するの」


「! なんでエメがそれを知ってるの!?」


「あの場に、いた」


 実際には潜んでいた、という方が正確だった。


「そうなの!? ……そっか。じゃあ、エメのこと置いて帰ってきちゃったね。ごめんね」


 その答えに、エメはムッとした。

 ゆりは頭が良いのに、こうやって時々頓珍漢な答えで彼を翻弄する。エメは立ち上がると、ゆりが腰かけているベッドの前に仁王立ちしてゆりを見下ろした。


「そんなことは、いい。それより、大事なこと。……答えて」


 エメが目の前に立ち塞がったので、ゆりはベッドに腰掛けたまま僅かに身を引いた。フードの下のエメの紫の瞳が冷たい光を宿しているのを見て取ったのか、ぶるりと身を震わせる。

 それを見てまた、エメの心はぞわぞわと波立った。


「し、しません。……しないよ」

「本当に?」

「しない」



 “良いか、『閃光』の。せいぜい恩を売って、あの者が教会から出ていかぬよう縛りつけておけよ。なんなら、お前の手練手管で籠絡してもかまわぬ。――房中術は、おんしら『閃光』の得意とするところであろう?”



 エメは昨夜、教導セグヌンティリエから言われた言葉を思い出していた。


 暗殺諜報組織『閃光』の一員であり、更に男にも女にも変じることができる雄雌同体のエメは、閨事ねやごとにおいても特別の訓練を積んでいた。

 ただそれは彼にとってあくまで任務の一部に過ぎず、指示された通りに相手をたぶらかし、必要な情報を得るための手段でしかなかったのだが。



 だがもし……ゆりに同じことをしたら?

 ゆりは泣くだろうか。その涙は悲しみか、それとも――。



 エメは無言でゆりの隣に腰を下ろすと、白いフードを取り、素顔を晒した。波打つ豊かな金の髪は、彼の瞳の色と同じ紫のシルクのリボンで束ねられている。

 ゆりは、なんだかエメは不機嫌そうだと様子を窺っている。

 エメはそんなゆりに顔を寄せると、その黒髪を梳き露出した彼女の薄い耳朶に鼻先を触れさせた。そして熱い息をわざとらしく吹き掛け、囁いた。



「ユリ。――ユリは、気持ちいいこと、好き?」



 ゆりはその瞬間真っ赤になって飛び退き、物凄い勢いでベッドの端まで後ずさった。



「ななななな何っ?! エメ、急に何言ってるの?!?!?!?!」



 ゆりのその反応を見た時、エメの中に様々な感情が沸き起こり、溢れた。

 それはすなわち、喜び、興奮、誇り、嗜虐。ゆりの全てを暴きたいという赤裸々な感情だった。

 この時彼の自己同一性アイデンティティは完全に男として確立された。本能が、男でありたいと望んだからだ。


 自分はもう、女にはなれない。この先、例え大教導勅命の任務があったとしても――女として誰かに抱かれるのは無理だろうな、とエメは思った。



 大体ゆりは、エメに対し無防備が過ぎるのだ。

 初めて会った時、彼が男でも女でもなかったからかもしれない。いつも当たり前のように手を繋ぎ、二人きりで部屋に入れ、更にはベッドの上で馬乗りにすることさえ許すなど……他の男では考えられない行いだった。



 エメはヘッドボード際に逃げたゆりとの距離を詰めると、真っ赤になっているゆりの頬に触れた。


 セグヌンティリエの言う――。それでもし、ゆりを絡め取り、自分に縛り付けることができるなら。

 それもいいかもしれないと彼は思った。


 エメがベッドに乗せた膝に体重をかけたその時、ベッドがぎしりと音を立て、ゆりの両耳に光る魔の黄水晶ミスティックシトリンがぎらりと輝くのが目に入った。



 ――それは贈り主ナオトの無言の警告。



 エメはその黄金色の宝石を忌まわしげに睨み付けた。興を削がれて立ち上がると、ゆりの頬に触れていた指でぞんざいにその鼻を摘まむ。



「じゃあ……今度、、ね」



 そう言って鼻を摘ままれたゆりの顔を覗き込んでフンと笑うと、再びフードを被り、エメは部屋を出ていった。



「え? ……え?」



 赤くなった鼻を押さえて縮こまるゆりの混乱ぶりを想像して、エメは廊下を歩きながら小さく笑った。

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