第四十六話 イエスともノーとも言ってはいけない

 通り一遍の挨拶をして、この世界にやって来た経緯を聞かれ。

 最後にこちらが本題だったのだろう、「ところでアーチボルト卿との馴れ初めは……」「海軍王子とのご関係は?」と聞かれ。


 同じような会話を何度か繰り返し、ゆりの挨拶回りは終了した。

 失礼がないよう、かつ無難に切り抜けるためにゆりの頭は始終フル回転していたが、時折アラスターが助け船を出してくれたのと、困ったときはにこり、と微笑めば相手は何かを察してくれたようだったので何とか最後まで乗り切ることができた。




 近くにフレデリクがいないのを確認しつつ、ゆりはアラスターが持ってきたフルートグラスに手を付けていた。



「アランさん、なんだか巻き込んでしまったみたいですみません」

「いや、俺が望んでエスコート役を引き受けたんだ。――ただ、参ったな。まさかゆりがあの海軍王子と懇意だったとは」

「懇意も何も……あの方とは二回しか会ったことがありません。しかもごく短い時間です。まさか、王子様だったなんて」


 困ったように笑うゆりに、アランは至極真面目に答えた。


「ゆり。前にも言ったが、男と女が燃え上がるのに時間は必要ない」

「そうなんですか……」

「そうだとも」



 自分だって、ゆりに出会ってからまだそれほどの時間が経ったわけじゃない。

 だが、この想いは既に取り返しのつかないほど燃え上がっているのだ。



「びっくりしましたよ。アランさんが私との出会いを聞かれて『一目惚れだ』なんて言うから」

「根掘り歯掘り聞かれなくて済むだろう。……それに、あながち間違いじゃない」

「えええ……人のことを麻薬か何かと間違えたんじゃなかったでしたっけ」

「そうだな。本当に――とんでもない麻薬だった」

「ひどいっ」


 最後は口説き文句のつもりだったが、ゆりにはそうとは受け取られなかったようだ。



 会場の隅に待機していた楽団が、優雅な音楽を奏で始める。ダンスタイムの開始を告げる音色だった。


 ああ、ついにこの時間が来てしまったかとゆりは嘆く。

 そんなゆりの気持ちを知ってか知らずか、アラスターはグラスを給仕へ預けると、貴族として完璧な礼をしてゆりへ右手を差し出した。



「ゆり。今宵一番美しいひと。俺と踊っていただけませんか?」



 アラスターの満月の瞳がまっすぐゆりを捉えた。逃れられないのはわかっていたが、ゆりはほんの少しばかり抵抗した。


「私……ダンスをするのは初めてなんです」

「それは光栄だ」

「勝手がわかりません。恥ずかしいです」

「貴女は俺のことだけ感じていればいい。……手を取って」


 ゆりは観念してアラスターの手を取る。するとあっという間に引き寄せられ、アラスターの体の中に収まっていた。目の前は黒い制服の逞しい胸元、上を見上げれば、アラスターの薄金の瞳が細められている。



 夜会のダンスは、あの日ナオトと屋根の上で踊った時のようにくるくるぴょんぴょんと目まぐるしいものではなかった。しっとりと落ち着いていて、優雅で、心地好くて。音楽と目の前のパートナーに身を任せれば、ゆりはもうそれだけで一人前の淑女だった。



「ゆり、貴女は本当に……いくつもの顔を持っている。俺は翻弄されてばかりだよ。今日の貴女は、間違いなく会場中で一番美しい」

「ふふふ、アランさんも格好良いですよ」

「……ようやくその顔が見れた」


 アラスターの言葉に、ゆりはこのドレスを着て馬車に乗り込んでから、まだ自分が一度も心の底から笑えていなかったことに気が付いた。

 ゆりが感謝の気持ちを込めてもう一度心からの笑みを向けると、アラスターはそれはそれは優しい表情でゆりを包み、応えた。



 会場の端で静かに踊り始めたはずの二人はいつの間にか、会場中の注目を集めていた。


 だが、そんな羨望の眼差しの奥――アラスターは、一人の男の殺気だった視線に気が付いた。壁に背を預けてこちらを睨み付けるフレデリク王子である。

 欲しいものは必ず手に入れるのが海の男の美徳だと言う。美しく、輝かしい自信に溢れた若き獅子は苛立っている様子だった。



 アラスターはフレデリクの視線を前頭部で受け止めながら、ゆりに囁いた。


「ゆり。ダンスは一人の相手と踊るのは一度までだと言うルールは知っている?」

「はい、そう聞いています」

「この曲が終わったら、貴女は別の男に声をかけられるはずだ。その時、もし相手に何か問われても――決して、イエスともノーとも言ってはいけない」

「……はい」



 アラスターの忠告は、初心者の自分が知らないダンスのルールなのだろうとゆりは思った。



「エスコート相手とだけ踊って終わるのも余計な詮索をされるだろう。あと二~三曲他のパートナーと踊ったら……父に声をかけて、神殿まで送ろう」



 だが、その言葉通りに物事は進まなかった。

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