第四十七話 “召し人”のヤナカ・ユリ

 フレデリク王子はこのところずっと、苛立っていた。


 礼拝堂の天使――ゆりと二度目の邂逅を果たしたすぐ後、彼はその足で教導と神官長の元を訪れ直訴していた。


 ゆりという、神殿に行儀見習いに来ている女性の家名を教えてほしいと。


 家の名前を聞いたなら、まずその実家に出向き、誠心誠意自分の想いを伝えてゆりの両親に結婚の許しを請うつもりだった。

 仮に家の決めた婚約者か――あるいはそれに類する存在がいたとしても、フレデリクは自分にはそれを捩じ伏せるだけの魅力も実力もあると確信していた。



 だが、教導も神官長も、ゆりの素性について口を割らなかった。



 彼女をミストラルへ連れて帰りたいと正直に告げると、その沈黙はより強固になるようだった。

「何故」と問えば、彼女は特別なのだと言う。彼女は自分の未来を自分で決める権利を持つ、と教導は言った。



 余程の名家の娘なのか、或いはかつてのフレデリクと同じように他国からモルリッツに来て神殿が預かる存在なのか。



 翌日からフレデリクは学友の伝手を使ってゆりの素性を調べ始めた。

 年の頃は自分と同じくらい、黒髪で小柄の娘。音楽の素養があり(あれだけのピアノの腕を持つのだから評判になっていてもおかしくないとフレデリクは考えた)、恐らく貴族であると。


 だがそれでも、ゆりの素性は知れなかった。

 できればもう一度会って本人に確かめたかったが、中央評議会での連日の会議、各国との面談に条約の締結。多忙は極まり、神殿に足を向けることすら叶わなかった。さらにあの教導らの様子からすると、面会を申し込んでも断られる可能性が高かった。できれば、ゆりにも教会にも警戒心を抱かせたくなかった。


 間もなくモルリッツでの滞在も終わる。この期を逃したら、もう二度と彼女には会えない気がした。



 ――もしかしたら本当に、彼女は天使だったのかもしれない。



 焦りが生まれその姿が遠のくほどに、フレデリクの内の情熱的な海の男の本能は燃え上がった。



 だが今日、彼女は思いもよらぬ形で再びフレデリクの前に現れた。



「モルリッツ支部神殿より、“召し人”のヤナカ・ユリ様、御到着!」



 その伝令の声を聞いた時、全てに合点がいった。

 ゆりは――本当に天から落ちてきたのだと。


「ははは」


 思わず笑いが漏れた。いくら調べても、彼女の家名がわからないはずである。

 だが、これは彼にとって僥倖だった。

 召し人なら、家もしがらみもない。更にミストラルは四代前の王妃が召し人だった。王子と召し人のラブロマンスはミストラル国民にとって鉄板の物語である。この婚姻に障害などなかった。


 彼女の隣で馴れ馴れしくその身体に触れる男がブリアーの伝説的英雄であろうが、その男がゆりをどう思おうが――そんなことは些事である。



 あとは、ゆり本人にイエスと言わせるだけ。




 会場を支配していた優雅な音楽が徐々に減じて遠ざかる。一曲目の終わりだ。


 フレデリクは壁から背を離すと真っ直ぐに一点を見つめて歩み出した。その足早な様子に護衛の犬獣人が慌てて少し後をついて来る。


 それまでゼロ距離で寄り添ってゆりと踊っていた『狼将軍』は、名残惜しそうにゆりの身体を離した。そうして近付いてくるフレデリクを剣呑な眼差しで迎える。



 この男は馬鹿だ、とフレデリクは思った。



 それほどゆりが大切で誰にも譲りたくないのなら、その手を離さなければ良いのだ。

 ダンスの二曲目以降を同じ人物が踊ってはいけないと誰が決めた?

 そんなのは、年寄り共の押し付けるくだらない慣習だ。体裁や面子を気にして真に大切なものを失うなど、愚者の行いだ。



 ゆりが振り返る。

 抜けるような白い肌に、艶やかな黒髪。その華奢だが女性らしい身体が纏うドレスは、海の青。

 これまでに会った時とは全く違う洗練されたその姿に、そして自分を映す輝く双眸に、フレデリクの胸は高鳴った。



「ゆり、次は俺と踊ってくれないか?」



 ゆりはフレデリクの問いに答えず、代わりに小さくはにかんだ。

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