第四十五話 俺の、天使
「ゆり、まさかここで……こうして会えるなんて」
「は、はい……」
掴まれた腕を振りほどくこともできず、ゆりは固まった。
フレデリクと名乗ったこの男性。ミストラルから連合会議に参加するためにモルリッツへ来ていると言っていた。だったら、この夜会にも参加しているかもしれないと何故思い至らなかったのだろう。
決して会うのが嫌だったわけではない。だがまさか、このような衆人環視の場で――。
ゆりは自分の想像力のなさが身に染みた。
「ゆり、こちらの方は一体――」
「団長!」
面食らったアラスターが事情を尋ねようとすると、フレデリクが現れた人の波から黒狼騎士団の鎧を着た犬獣人の男が走ってくる。アラスターが、要人警護のために配した団員の一人だった。
「団長、こちらの御方は――フレデリク・エイリーク・ミストラル殿下。アルノー国王陛下の名代……ミストラルの第一王子殿下です」
「!」
その言葉に、ゆりもアラスターも目を丸くした。
「海軍王子」フレデリク・エイリーク・ミストラル。国際情勢に少しでも耳目があれば、その名を知らぬ者はない。
ゆりは単純に、目の前の人物が王族だったことに驚いていた。慌てて膝を曲げて礼を取ろうとすると、つっかえ棒をするように肩に手を当てて押し留められてしまい、それは叶わなかった。
「ああ、気にしないで。だから堅苦しいのは嫌なんだ。もっと顔を良く見せてくれないか? ―― 俺の、天使」
そう言った瞬間、背に物凄い冷気が駆け抜けた心地がしてフレデリクはゆりの後方を見た。
そこには、剣呑な光を目に宿らせ、だがそれを悟られまいとするが如く表情を凍らせたアラスターの姿がある。
フレデリクはふうん、とその姿を一瞥するとゆりに尋ねた。
「ゆり、……こちらの武人は誰だ?」
ざわっ
フレデリクの言葉に、周囲からざわめきが起こった。
アラスター・ウォレム・アーチボルト。
狼将軍、孤高の黒騎士、伝説の神獣人。二つ名は数あれど、吟遊詩人にも歌われる彼は、過去の内乱や幾度にも渡る大規模な魔物の襲来を退けた生きる英雄である。
フレデリクは、そんな彼とその偉業を「知らない」と言ったも同義だった。若さ故の無謀が為せる、明らかな挑発だった。
ゆりがどう口を開くべきか戸惑っているとしかし、アラスターは冷静だった。フレデリクの前に膝をつくと、騎士の礼を取り名を名乗った。
「中央評議会管下、黒狼騎士団団長のアラスター・ウォレム・アーチボルトと申します。フレデリク殿下、以後お見知り置きを」
その完璧な名乗りに、周囲の女性達はほう、と息をつく。
「そうか。何分連合会議に来るのは初めてだから、知らぬことが多くてな。許せよ。……ところで、この護衛は貴方の部下か? 護衛対象を見失うとは、練度が不足している」
「申し訳ありません。海軍王子と名高い殿下にご忠告いただき、身の引き締まる思いです。ただ……、我が部下も、殿下ほどの御方が衆目も顧みずご婦人に礼を欠いた振る舞いをなさるなど、思い至らなかったのでしょう。どうか平に御容赦を」
自分のせいで上司が大勢の前で恥をかかされているのを理解した犬獣人の騎士は、真っ青になっている。
フレデリクもまた、嫌味を言ったつもりのアラスターに逆にやり込められて、不機嫌そうに「構わない」とだけ告げた。だがそれだけで引き下がる気はないのか、一度ゆりの手を離したものの、改めてその右手を……今度は優しく、取った。
「ゆり、きみと話がしたい。きみのこと、もっと教えてくれないか」
ゆりはフレデリクに掲げられた自分の右手を見た。そこにはナオトの「おまじない」が刻まれている。
“ゆりは今日、他の誰のお姫様にもなっちゃダメ”
ナオトのあの言葉が聞こえてきた気がして、ゆりは状況についていけずにおろおろしていた自分を叱咤した。
「フレッドさん。……フレデリク殿下。私は今日、モルリッツ支部神殿から使者としてこちらに参りました。アーチボルト卿はひとりで来て右も左もわからない私のために、お忙しい中エスコートして下さっています。お話は、教会の者として他の皆様にご挨拶が終わって……その後でもよろしいでしょうか?」
そう言って改めて優雅に貴族の礼を取る。
もちろんゆりは教会を代表するような立場ではないしそのつもりもないのだが、そう言えばフレデリクは引き下がるだろうとの打算があった。
「――ああ、わかった。でも覚えておいて。今夜はこの間のように、
眩しいほどの自信に裏打ちされたその笑顔は、ゆりをどきりとさせた。
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