第十話 今から貴方を洗います

 戦いの後処理が終わると、ゆり達は取り急ぎ川を目指して東の方角へ引き返した。エメだけが念のため火炎蜥蜴ファイヤサラマンダの巣穴の方へ確認に向かう。


 ナオトは自分から進んで返り血を浴びるような戦いをしておきながら、くせー、ベタベタするー、としきりに文句を言ってはドーミオにどやされていた。

 川を渡ったところで既に日は大分西に傾き始めていたので、一行は昨夜の夜営地からそう遠くない場所に今夜の拠点を定め、エメの帰還を待つことにした。



「さて。今から貴方を洗いますので動かないように」

「え~、ゆりも脱げば?」

「脱ぎません! ……こらっ、下は脱がないの!」

「つまんないの」



 ドーミオが食事の支度をしている間、ナオトを川辺へ引っ張ってきたゆりは仁王立ちで彼に服を脱ぐよう指示した。

 そうして血塗れの革鎧とその下の半袖シャツを強制的に回収すると、ドーミオから借りてきたごわごわのタオルを川の水に浸して絞る。改めて裸の男が目の前にいると意識すると緊張してしまうので、ゆりは努めて平静を装い、あまり上半身を直視しないよう心掛けながらほらほら、とその場に座るように捲し立てた。


 本当ならば丸ごと川に突っ込んで本物の猫のようにがしがし洗ってやりたいところだったが、流石に夜の川は冷える。シャンプーや石鹸のようなものがあればいいのに、とはこの旅の間何度も思ったが、男所帯(+性別不詳)の旅にそんな気の利いた備えが有るはずもなく。身を清めるのもたまに身体を拭いたりするくらいのものだそうで、ゆりはここでも日本との文化の違いを感じていた。


 つまらなそうな顔でちぇ、と文句を垂れたナオトは、そう言いながらも促された通りに地面に座った。

 ゆりはよくできました、とばかりにナオトの頭をぽんと叩くと、その前に屈み、彼の髪に張り付いてひどく固まってしまった血糊を丁寧に濡らして溶かし、剥がし始めた。ナオトは大人しく座ってゆりのされるがままになっているが、耳と尻尾は所在なさげにそわそわと動いている。


 ナオトの脚の間に挟まれるように立っていると、嫌でも鍛えられたその肉体が目に入る。視界の隅にちらりと見えた彼の胸元には、いくつかの古傷があった。それすらひとつの芸術のようで、日に焼けて引き締まった身体はさながら彫刻のように美しかった。



 ――目の前の男は巨大な猫だ。意識するな。



 そう自分に言い聞かせて、ゆりは血が張り付いてバリバリに固まってしまった獣耳の付け根を丁寧に拭く。


「ふふふ……ふぁ」


 くすぐったいのか、それまで神妙に座っていたナオトが急に笑い出した。


「はあ~、オレ、耳弱いんだってばぁああ! ……ねえ、これ新手の拷問?」

「だって、やってあげないとどうせそのままなんでしょ?」

「あ~~、もう!」


 突然ナオトがゆりを抱き締め、その胸元に顔を埋めた。


「きゃっ! ちょ、ちょっと!」


 屈んでいたゆりはバランスを崩し、その場に膝立ちになってしまう。

 普段から散々抱きまくらにされているとは言え、流石に裸の男に抱きつかれては平静ではいられない。慌てて引き剥がそうとするが、ナオトの赤銅色の頭はゆりの胸に埋まったままぐりぐりと押し付けられて離れない。既に乾き切った血糊がゆりの胸元に擦り付けられ、ゆりの服も少しだけ赤く刷れた。

 胸の谷間に息がかかり、そこからナオトのくぐもった声が漏れてくる。


「……おっぱい」

「はっ?」

「おっぱいは凶器だ」

「…………もう!」


 押し付けられた鼻がくすぐったいが、それ以上変なことはしてこなかったのでゆりは諦めてそのままナオトの髪を拭き続けた。



「……なんか、向こうのことを思い出しちゃうな」



 ゆりはナオトの髪を手櫛で梳き、解しながらぽつりと呟いた。

 ゆりがこの世界に落ちて来た時、ちょうど日本では本格的に夏が始まったところで、ゆりの勤める幼稚園でも連日プールの時間があった。プールの後は、はしゃぎ回る子供達の体を抱き込んでその頭を拭いてやるのがいつものゆりの仕事である。


「……本当に、子供みたいなんだから」

「子供じゃねーし」


 ゆりの呟きにナオトは心外だと言った調子で返すが、胸から顔を離す気配はない。ゆりは呆れて苦笑した。


「どう見ても子供でしょ?お風呂上がりとかにお母さんにこうやって髪を拭いてもらったことはないの?」

「ないよ」

「えっ?」

「……オレに親はいない」

「…………。そっか」


 気まずいことを聞いてしまったと思ったが、謝るのも違うような気がしたので、ゆりは小さく相づちだけを打った。


「つか胸に埋もれて欲情するガキはいないでしょ……」

「なに?」


 ぼそぼそと溢した言葉をゆりが聞き返すと、ナオトはそれには答えず大仰に何か呪文のようなものを唱え始めた。


「あ"ーー。……テンにマシマスホウジョウの女神サマ、ドウカアワレな抱きまくらをお守りクダサイ、据え膳食ったらオッサンに殴られマス……。え~、あー。意地悪猫には天罰だ~、トロルが齧って食べちゃうぞ~ ♪~」


 そうして何かを誤魔化すように、ゆりを抱き締めたままその胸の中で意味不明なお祈りやら、節のついた童謡のようなものをブツブツと繰り返していた。



 そうして少し経ち、髪についた血糊を粗方落とし終わると。ゆりは濡れタオルをぺたん、とナオトの頬にあてた。


「終わったよ。後は向こうで自分で洗い流……。 っ!?」


 突然ナオトがゆりの腰を抱いたまま、無言でタオルを持つゆりの右手を掴み、顔を上げた。

 そうして視線が交差すると、ゆりはその輝く金の瞳の中に捕らわれて動けなくなってしまう。あの日、日本で最後に瞼に灼き付けられた、真夏の太陽のような黄金に。


 ナオトは何か言いたげに、でも言えずに堪えるような切ない表情でゆりを見た。するとゆりの心臓は大きく跳ね、もつれて駆け出すように強く早く打ち始める。獣人は耳がいいから、目の前の男にもきっとこの音が聞こえてしまっているだろう、とゆりは思った。



 一瞬だったか、一刻だったか。


 ナオトの懇願するような視線から逃れようとして、ゆりは裏返り気味の声を上げた。


「えっと、あの……。 ナオトくん、聞いてたかなー?」


 ばくばくと五月蝿い心臓の鼓動を誤魔化そうとして、ゆりは咄嗟に園児に問いかけるようなわざとらしい口調が出てしまった。

 あっ、と思った時には既に遅く、ナオトはぷいっと顔を逸らして立ち上がると、無言で川下の方へ去っていってしまった。

 いくら相手が子供っぽいとはいえ、成人男性に話しかける態度じゃなかったな、とゆりは反省した。



 ――失礼なことしちゃったなあ。馬鹿にされたと思ったかな。帰ってきたら、謝ろう。



 ゆりはふう、とひとつため息をつくと、自分の胸に手を当て、その高鳴りを静めようと目を閉じた。




 ややあって、ゆりが血塗れのシャツを洗って干し、革鎧を磨いている頃に、ふらりと外套を羽織ったナオトが戻ってきた。


「おかえりなさい。……ねえ、ナオト。さっきはごめんね?」

「ん? 何が? ……ああ、ゆりがイヤらしいことしてオレを手篭めにしようとした件?」

「ふ、拭いただけでしょ」

「罰として今夜はオレの抱きまくらの刑」

「それっていつもだよね?!」


 いつも通りのさっぱりとした表情で軽口を叩くナオトの様子に、ゆりは戸惑いつつも、杞憂だったかなと内心安堵した。

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