第九話 オレは泣いてない

 ナオトはこびりついた血を払うように神剣を振るうと、そのまま鞘に収めた。


 ドーミオは大斧を火炎蜥蜴ファイヤサラマンダの後ろ脚に突き立てたまま腰の大鉈を振るうと、四本の鋭く赤い爪を一本ずつ丁寧に剥がし始める。


「でけえな」


 そのドーミオの様子を見ていたエメは、自分も、とばかりにひょいひょいと地面を飛び移り、もう一体の死体の下へ駆けて行った。



 返り血を浴びて真っ赤になったナオトが、真っ直ぐゆりの方へと歩いてくる。

 ゆりはその場から動くことなく、ナオトがこちらへ近付いてくるのを見つめていた。伏せがちだった黄金の瞳を覗くと、そこにはもう捕食者のようなギラギラした輝きはなく、いつもの通り宝石のように美しいだけだった。


「ゆり、ゴメンね? 怖がらせちゃった?」

「ううん。違うの。大丈夫」

「じゃあなんで泣いてるの」


 ナオトが悲しそうな顔で、しゅんと耳を伏せた。ゆりはそう言われて初めて、自分が泣いていることに気付いた。


「だって……。ナオトが、泣いてたから」

「オレは泣いてないよ」

「そう? ……なら、いいんだけど」

「ヘンなゆり」



 ――私には泣いてるように見えたよ。


 

そんな荒唐無稽な考えを、ゆりは口にはしなかった。

 ナオトはアハハと小さく笑うと、指を伸ばしてゆりの頬の涙を拭い、そのままペロリと舐め取った。


「あまい。……あ。ゴメン、ゆりの顔に血が付いちゃった」

「いいよ」


 その一言を全ての肯定と受け取ったのか、突然ナオトは血塗れのまま、がばり、とゆりに抱き付いた。首筋に顔を埋め、鼻を鳴らしながら胸いっぱいその匂いを吸い込んでいる。獣の耳と尻尾がゆらゆらと揺れていた。


 ゆりはそれを止めるでもなく受け入れると、トントンと落ち着かせるようにナオトの背を叩き、それなりの時間、そのまま好きにさせていた。時折ナオトの赤銅色の髪の毛先を弄んだりしていたゆりだが、やがて血糊でベタベタのナオトの頭をゆっくり撫でると、静かな声で言った。



「勇者って、大変だね?」

「チョロいよ」

「強かったね」

「当たり前じゃん」

「勇敢だったね」

「惚れちゃった?」

「かっこよかったよ」

「……アリガト」

「すごいと思った。でもね、」



 ゆりはナオトの肩を掴んで押し、その頭を自分の首から引き離すと、ポケットからハンドタオル(某パンのヒーロー柄)を取り出し、ナオトのきれいな顔についた返り血を優しく拭った。



「……でも、もう少し自分の事も大事にしてね」

「…………」



 ナオトはしばらく無言でゆりを見つめたまま顔を拭かれていたが、ややあって、小さく「ゴメンナサイ」と呟いた。


 その呟きをたまたま一仕事終えナオトの背後で拾ってしまったドーミオは、ぎょっとして火炎蜥蜴ファイヤサラマンダの爪――高級素材として高値で取り引きされる――を取り落とした。



「ドーミオさん? お疲れさまでした」

「お、おう」


 遠くからは一見、睦まじい男女のやり取りにしか見えない二人だったが、ゆりはそれを間近で見られても特に恥じるでもなく、ただ少しだけ頭を下げてドーミオを労った。


「少し戻りませんか? できれば、今朝通った川の辺りまで。ナオトを洗ってあげないと」

「えー何、 ゆりと水浴び?? ねえ、ゆり、ここに来る間すごく汗かいたでしょ? 正直フツーに勃つんだけど」


 いつの間にか本調子に戻ったナオトが、いつものように下卑た言葉を笑顔で振り撒き尻尾を左右に振ると、ゆりは小さな子供にするようにメッ、と咎めた。すると、斑の尻尾はぴたっと止まり、そのまま力無く落ちる。


 おいおい……


 ドーミオはあまりの驚きに目をこれでもかと見開きナオトを見た。


 ナオトが神剣を引き抜き勇者と呼ばれる前、まだ軽薄な外面を身につける前の少年の時分。ギルド内でその恐ろしげな戦いぶりから「赤い悪魔」という二つ名で囁かれていたのを知るドーミオには、目の前の青年がそれと同じ男だとはにわかには信じられなかった。


 ゆりがナオトの戦いを見て泣き叫んだ時、それは目の前で繰り広げられる残酷な命のやり取りへの嫌悪感、恐怖感からなのだとドーミオは思った。女子供、ましてや魔物すら見たことないと言うんだから尚更のこと。

 だが、ゆりは返り血を浴びて歩いてくるナオトを恐れることなく受け入れ、労い、それを拭い、同じく自らが血で汚れることも厭わなかった。


 ドーミオは――或いはゆり自身も知るべくもなかったが、あの戦いの中でゆりが泣くほど恐怖したのは、ナオトの心が傷付き、壊れることだったのだから。



 ――優しい女。強い女。賢い女。



 ドーミオは再び、自分の中のゆりの評価を改めたのだった。

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