2-17 ここにも春が

 

「佐藤先生、先日の交流会の報告書の件でちょっといいかな?」


「水島先生。報告書に何か不備でも?」


 職員室で事務作業中のA組担任佐藤に、学年主任の水島から声がかかった。


「いや。不備はないんだけど、修正が必要になってね」


「修正ですか?」


「うん。聖カトリーヌ学院での、うちの子たちの評判がかなり良かったらしいんだ。来年度もどうかって話が来てる」


「そうなんですか?」


「そう。男子生徒たちが品行方正だったのと、女性に対して優しいっていうのかな? 態度がとてもいいって褒められたよ。教師と生徒の両方に受けが良かったみたいだ」


 今年初めて招待され参加することになった、聖カトリーヌ学院の「他校交流会」。

 日頃「金で集めた」などと揶揄されている男子生徒たちが、日本屈指の伝統校から高評価を受けたことは、学園にとっては大きなプラスになることだった。


「さすがうちの生徒たちですね。じゃあ……修正というより、レイアウトから書き直しになりますか?」


「察しがいいね。悪いけどそうなんだ。単発イベントの報告書ならこれで十分なんだけど、恒例イベントになるなら、何点か足りないところがある。一時から小会議室で一緒に見直しをしようと思うんだけど、都合はどう?」


「はい。大丈夫です。よろしくお願いします」



 *



「うん、これでいいね。お疲れ様。上にあげておくよ。多分いい評価がもらえると思う」


「ありがとうございます。これもご指導して下さった水島先生のおかげです」


「そう言ってもらえると嬉しいな。でも、佐藤先生がちゃんと生徒と向きあって頑張った結果だよ。なにしろ、A組はいろいろあったから。最初はどうなることかと思ったしね」


「本当に。いろいろありましたね。男子生徒の途中退学が出た時には、担任としての責任を問われるところを、先生にかばって頂いて。あの時は本当にありがとうございました。実は、一旦教師を辞める覚悟もしていたんです。ですから、こうして今あるのも先生のおかげです」


 初めてのA組担任を受け持つという重圧。さらに、クラス運営の要ともいえる男子生徒の退学は、まだ教員経験の浅い佐藤にとって大きな負担となっていた。そして職員会議で責められた際には、全く申し開きができなかった。


「大袈裟だなあ。あれは不可抗力だし、僕はそれほどのことはしてないよ」


「いえ。あの時は気持ちに余裕がなくてちゃんとお礼も言えませんでした。本当に感謝しています。微力ながら、私にお手伝いできることがあれば何でもします。何でも仰って下さい」


「それは……全く君は無用心だなあ。そういうところが佐藤先生の美点でもあるけど」


「無用心……ですか?」


「そう。同僚とはいえ、君みたいな若くて可愛らしい女性が、こんなオジサンに対して『何でも』なんて言っちゃダメだよ。勘違いされるから」


「えっ! あっ! やだ、私ったら。そういうつもりじゃ……それに、水島先生はオジサンじゃありません!」


 思わぬ事態に動転し、声が尻すぼみになる佐藤。


「耳が赤くなってる。ますます可愛いね。これは、脈があると思っていいのかな?」


「脈? 私……そんな。私なんか。だって、水島先生はこの学園の」


「ああ。そこは気にしないで。確かに僕の祖母がこの学園の経営者だけど、その立場を利用したらパワハラになっちゃうし。あれ? この状況が既にセクハラ? ごめん。もしかして嫌だった?」


 水島が佐藤の顔を覗き込むと、彼女の顔まで赤くなった。


「全然……嫌じゃないです。でも、この状況が信じられないというか」


「ごめん、ごめん。職場でする話じゃないよね。でも、僕もきっかけが欲しかったんだ。こういう話を切り出すのって、案外勇気がいるからね」


「私の勘違いでなければ、もしかして、私、いえいえまさか。すみませ……」


「勘違いじゃないよ。君を口説いてる。でも、職場じゃこれ以上不味いから、今夜どう? 食事にでも行かない?」


「こ、こ、こ、今夜ですか? そんな、心構えが……それに支度も。こんな服じゃ先生に失礼です」


 男性からのデートの申し込みを受けて、仕事着で行くなんてありえない。それが意に沿う相手ならなおのこと。それがこの社会の女性の常識であった。


「僕から見たら、その格好も十分に可愛いらしいけどね。でも、さすがに今夜は急過ぎたか。ごめんね。こう見えて結構せっかちなんで。じゃあ、週末はどうかな? 春休みだし、時間は作れる?」


「はい!  作れますし作ります。是非、よろしくお願いします」


「よかった。食べ物の好き嫌いはある? カジュアルなお店にしようかとは思ってるんだけど」


「好き嫌いは特にないです。でも、先生がお店を予約して下さるんですか? そんなの申し訳ないです」


「誘ったのは僕だし、当然だよ。じゃあ、週末を楽しみにしてるね」



 ◇



「ふんふんふふーん♪」


「どうしたの、お姉ちゃん? 鼻歌なんか歌って」


 鏡に向かって入念にお肌のお手入れをする佐藤華子。気分はもうウキウキである。


「うふふ。デート♡することになっちゃった!」


「へ? デート? いったい誰と?」


「それがね。信じられないことに、あの水ピーとなの!」


「あの水ピーって、まさか御曹子おんぞうし水島?」


「そう、そのまさか」


「うわっ! 凄いじゃん。どうやってアプローチしたの?」


「してない。なんと、向こうからの申し込み」


「えーっ! マジ? そんなことあるんだ? 男性からのアプローチなんて、都市伝説かと思ってた」


 社会に出たら自由恋愛なんて夢のまた夢。男性側からデートに誘われることは、学生時代の競争に敗れた社会人女性たちにとって、都市伝説の域に達していた。


「そう。だからびっくりしたけど、もちろん即OKしたわよ。どうしよう。『僕のお嫁さんになりませんか?』とか言われちゃったら」


 夢が風船どころか気球のように膨らむ佐藤。


「いくらなんでも、初デートでそれはないでしょ。でも、向こうからきたってことは、いずれは?」


「だよね、だよね。期待していいよね。もう、結婚なんて諦めかけてたけど、憧れの水ピーから申し込まれるなんて、夢みたい」


「お姉ちゃん、学生時代、水ピーファンクラブに入ってたもんね」


 実は今だに存在する水ピーファンクラブ。今は大人しい活動をしているが、佐藤が高校生だったころは熱心な会員が多く、それ故に希少な男性教師である水島に迷惑がかからないようにと、厳しい会則が設けられていたほどだ。


「そりゃそうよ。だって水島先生、私のドストライクだもの」


「栄華秀英に採用が決まったって聞いて、ストーカーかよってちょっと心配したけど、まさか想いが実るとは。でも、おめでとう。上手くいくといいね!」


「ありがとう。神様がくれたこのチャンス。私、頑張るから!」

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