2-04 バレンタイン前奏曲 in 聖カトリーヌ学院

 「……花蓮さま♡」


 そっとあの方の名前を呟いてみる。それだけで、キラキラした気持ちが、シャボンの泡のようにプクプクと溢れ出す。なぜこんなにも幸せな気分になれるのかしら?


 一昨年の春、この学院に颯爽と現れたそのお姿に、わたくしの目は吸い寄せられ、そして釘付けになった。


 ピンと伸びた背筋。私よりも頭ひとつ分高く、見上げなければならないほど、すらりと伸びたしなやかな肢体。


 肩で風を切って歩く姿は、うちの婆やが見たら、呆れて顔をしかめてしまうかもしれない。けれど大胆なその動きは、行儀とか礼節とか、そういったものを瞬時に吹き飛ばし、強烈に私を魅了した。


 それなのに、よく見るとこの場にいることが居たたまれないような、どこか不安げな表情を、時折チラリと見せる。そのギャップが……もうっ! たまらないんですの!


 ああっ、その憂いの原因となっているものを、少しでも取り除いて差し上げられたら。そのお手伝いを、私ができたら。


 ……胸の奥から湧き上がる、ふわっとしたこの気持ちはなんだろう?


 もどかしいような、切ないような……そして、焦れったい……なのにどこかウキウキするような、これ以上ないくらい甘い気持ち。


 ……これが「胸きゅん」、そして「ときめき」?


 きっとそうだわ。皇極こうぎょく家という、日本を代表する、そしてそれ故に縛りの多い家に生まれた私にとって、それは人生初めての、心を大きく揺さぶる感情だった。



 ◇



 ここは、聖カトリーヌ学院の中でも選ばれた生徒だけが利用できる「ロイヤルサロン」。何代にも渡ってこの学院に通う、由緒正しき聖カトリーヌ生の交流の場である。


 南向きのサンルームになったこの場所は、冬でも暖かい陽射しが差し込み、今日も生まれながらの勝者ともいうべき令嬢たちによる、優雅なお茶会が開かれていた。


斉子せいこさま。今年のバレンタインデーのご予定は?」


「私も気になりますわ。いかがなさいますの?」


 そのテーブルでは、三人組の少女のうちの二人が、期待に満ちた眼差しで、上座に座る優雅な少女にそう尋ねていた。


賢子たかこさま、それに彰子あきこさまも。それは、申し上げるまでもありませんわ」


「と申しますと、やはり?」


「もちろんですわ。わたくしは花蓮さまに、いえ、花蓮さまだけに差し上げますの。あの方に相応しい、宝石のような究極のショコラを!」


「やはり花蓮さまですのね。そのご様子ですと、もうご準備はお済みですの?」


「当然ですわ。パリから有名なショコラティエを招いています。工房ごと雇いましたから、そろそろ試作品が出来上がってくる頃だと思いますわ」


「さすが斉子さま。素晴らしいものができそうですね」


「昨年は、生徒会選挙の関係でお渡しできなかったから、今年こそは……どうしても、この斉子の気持ちを受け取って頂きたいの」


「あの選挙では、意図せず花蓮さまの対抗馬になってしまって、私たち、困りましたものね。慌てて棄権しましたけれど」


「争いごとなど、私たちの望むものではありませんもの。あれは正解でした」


 皇極こうぎょく 斉子せいこ

 元正げんしょう 賢子たかこ

 後桜町ごさくらまち 彰子あきこ


 聖カトリーヌ学院の三女帝と呼ばれる、日本最高峰の名家出身の令嬢たち。


 そんな高貴なお嬢様たちの話題は、同じ年頃の女子高校生と同じく、近づいてきたバレンタインデーにまつわるものであった。そのスケールは全く違ったが。


「斉子さまの純粋なお気持ちに、わたくし、胸が打たれました。私たちも協力させて頂きますわ、ね、賢子さん」


「ええ、もちろん。でも、斉子さまが花蓮さまにショコラをお渡しになられたら、学院中が大層な騒ぎになりませんこと?」


「そうかしら? 花蓮さまにショコラを渡される方は今年もかなり多いはず。わたくし一人が増えても、あまり変わらないのでは?」


「それは違いますわ。斉子さまご自身が、多くの生徒に慕われておりますもの」


「そうですわ。確かに昨年は花蓮さまブームで、持ち帰れないほど大量のショコラが花蓮さまに送られたと聞きます。今年も同様でしょうけれど、一般の生徒と斉子さまでは、周りの注目度がまるで違います」


「なるべく騒ぎにならないよう、お渡しになるシチュエーションを、考えておいておかれた方がよろしいかもしれません」


「……分かりました。お二人がそう仰るのなら、きっとそうなのでしょう。その点については、きちんと考えておきます」



 ◇



「よいしょっと」


「花蓮。どうしたの? そのダンボール……とカート?」


 生徒会室に、折りたたんだダンボールをカートに載せて持ち込んだ。麻耶が驚いているが、俺にとっては必要なものだ。


「いや。バレンタインデーが近いからさ。準備しておこうかと思って」


「ああ。去年は大変だったものね」


「そうなんだよ。貰ったチョコレート、しばらく生徒会室に置いておいてもいいよね?」


「隅に積んでおくなら構わないわよ。でも食べきれないでしょ? その後はどうするの?」


「去年は全部食べたよ。凄く時間がかかったけど。高そうなチョコばかりだったし、捨てるのももったいないなって思って」


「信じられない。それでよく吹き出物が出なかったわね」


「うん。体質かな?」


 不思議なことに、いくらチョコを食べても、お肌はツルツルのままだった。それどころか、日記帳が言うには、チョコレートを食べれば食べるほど、保有する魂のエネルギーが上がるらしい。


 じゃあ、チョコレートをたくさん食べ続ければ、いつかは男に?


 ……と尋ねたら、まだまだエネルギーが足りなさ過ぎて無理だと言われてしまった。


 この世界に来るに当たって、俺に与えられたものは日記帳以外にもう一つある。それは「加護」だ。


【ショコラ神の加護】


 ショコラ……つまり、チョコレートの神様の加護らしいんだが、本来、俺みたいな義理チョコしか貰えない奴につく加護じゃないんだって。


 日記帳いわく、


 〈他に立候補する神がいませんでした。仕方なく、相対的に選ばれたと言いますか……〉


 なんだ。お情け? あるいは消去法? 


 あの日、義理チョコの入った鞄を抱えて溺れたことが決め手になったらしい。


 それを聞いて、なんだよそれ。あんだけ働いてたんだぞ! もっと勤労の神様とか、そういうのが手を挙げなかったのかよ……って言ったら、


 〈「勤労の神の加護」は、この日本では非常に人気が高く、また需要も多いので、ほとんどの係属神の枠が既にいっぱいでした。唯一残っていたのは「社畜獄卒の偏愛」という加護になりますが……まだ空いているようです。かなり厳しい環境への転生になります。そちらを希望しますか?〉


 ……もちろん断った。社畜云々はもうウンザリだ。ポンコツでも今の日記帳の方がまだマシだろう。


 でもなぁ。バレンタインデーなんてイベントがあるのに、なんでショコラ神の御利益がこんなに弱いんだろう?


 それだけが不思議だ。


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