マカロニはその辛味を知らない。


 朝、寝ぼけて冷凍庫をあける。冷え冷えの肉を見て、間違えたと気づく。起床してすぐの頭をふって、冷蔵庫をあけなおす。マカロニサラダがよく冷えている。朝食にしようと、取り出した。


 今日は全国的な大雨で、私も職場へ行くために紺色の傘を広げていったものだ。ビニール傘ならその透明感で世界が見渡せたものの、傘立てには一本だけ。それを持っていくしかないように。あいにく刺さっていたのは、別れた恋人が置いて行った重たい色をした傘だけだったのだ。

 徒歩で通える通勤距離だから、晴れてさえいれば自転車で通うのに。雨が降っているからカタツムリみたいな速度でとろとろ歩く。私の速度は何よりも遅い。雨粒は容赦なく傘を叩くのだ。

「いっそ空気にでもなれたら素敵なのにね、なんて」

 たわいもないセリフを唇に乗せる。携帯電話で写真付きでポエミーな憂鬱でも書き込んでやりたいところだけど、前に携帯電を水没させた経験から、水分へ敵対心しかないのである。生活防水に叩きつける雨水がどれだけ耐えられるなんて、わざわざ私が実験しなくてもいいものの。だからといってメーカーに問い合わせるのも馬鹿げた話。何台もの自動車が水しぶきをあげて通りすぎていくのを、通勤ラッシュと名付けて見送った。

 最近買った香水の香りを巻き散らかして出社。オフィスレディなんて流行らない、地元の信用金庫の従業員。甘い香水よりもお金のにおいが染みついて取れない職業。自分のお金になるわけでもないのにね。大枚を数える日々。

 清楚系と聞けば耳障りがいい、簡単な化粧しかしていない、クセで触った口元からシェルピンクの口紅が人差し指へ僅かにつく。女色のそれがとっても好きになれなかった。--そもそも私は人間に向いていないのだろう。給湯室でぼんやりと思う。会社に着いて、制服に着替えて、お茶くみをする。ヤカンで沸かしたお湯がふつふつと怒るのを見て、私は沸騰することなどないのだと冷めていた。女子トイレでどんくさい私の悪口が響く。彼女らに対して、なんの怒りも沸いてこない。すでに期待なんてしていない。慎ましく心は死んでいた。争うことをやめた本能は生き物たらしめるアレやソレを考えるのを放棄してしまったのだ。

 考えることをやめた私は葦にもなれやしない。これが何らかの使命を与えられた人生だというのならば、きっと「平凡」というカテゴリーづけられるものだと思う。だからといって向上心を持っているわけでもなく、出世に燃えるタイプでもない。意識高い系を見ているとただひたすらに吐き気が沸いてくる、むかし、大学生だったころの私はまだ空気を読むことが下手くそだったため、ボケたことを言ってしまった。元気に張り切っている自称アイティ系の同級生へ「社長になったら税金対策でパナマ貯金箱するのかな?」なんて。彼の親が県議会議員だったなんて、知ってはいたけど、それは変化球もいいところで皮肉だった。パパは税金からお給料をもらっているなんて、わざわざ言うまでもなく公民の授業で習うこと。幸いにも地頭が足りていない彼は適当に受け答えしたようだった。いまの環境でこれをやると、女子トイレの馬鹿どもならまだしも、お上の男性陣には嫌な顔をされる。そういう自分に対してのアンテナが鋭いところはとっても尊敬できるけれど、奴らは気持ち悪いほど自意識が過剰だった。

 溜息をひとつ。

 目線の少し上を見上げると、小さな窓が見える。雨粒が窓へ張り付き、したたり、流れる。この窓から逃げ出そうにも、学生の時よりも体重を増やした私には無理そうだ。

「あれ? いいにおい。香水ですか?」

 不意に後ろから。年の近い営業主任に声をかけられた。気にもされていないだろうと思ったのに、細かいところによく気づく。そういうところが、業績に結びついているのだろうか。社内規定では黒髪というお堅いルール。それなのに栗色の短い髪の毛は地毛らしい、持ち前の愛嬌でカバーする。ずる賢いのではなく、そういう生き延び方をしたタイプとすぐわかる。主任の名前は旧姓が谷地というらしい。

「彼氏と別れたから、」

 嘘はつかなかった。嘘をつけるだけの小手先の器用さは持っていなかった。一方、栗色の髪の毛を揺らす彼の場合は口から出まかせ、事実を少々。営業さんのそういう会話が好きにはなれず、女のソレよりタチが悪い。

「そうなんですか? キミは可愛いからすぐ新しい出会いがみつかりますよ」

 だって。私のネームプレートへ視線を下げたことを知っている。影の薄い私の名前なんて忘れてしまうものだろう。別に気にしていないけれど、そういう風なそぶりを見ると、提出書類へ印鑑だけの付き合いだと、なおさら感じるものだった。

「見つかるでしょうか、」

「見つかりますよ」

 へらりと笑うその笑みがわざとらしい。

「なら、元彼のにおいなんてなおさらご法度でしょうね」

「自分は初恋で初婚なのでアドバイスとかできないですけど、応援はしてますよ」

 皮肉だろうか、嫌みだろうか。それとも天然なのだろうか。いろいろ考えてみるけれど、いろいろ考えるだけ無駄だと悟る。この男が言う応援とはいったいなんなのか、左手の薬指が嫌みに思えて仕方がない。溜息ひとつ、つくつもりもなかったのに、今日が雨だから、低気圧だから、湿度が部屋を重たくさせているから。ぽつりと、吐いてしまった。

 お茶出し、覚えたカップを間違えずに並べる。お茶出しに文句いったところで、社会の風向きが変わるのは地方だとだいたい三年くらい遅れているものだ。バイトのように給料に見合うだけとは言えず、派遣のように妥協するわけにもいかず。宙ぶらりんな私たち、準お局予備軍はお局様のご機嫌を損ねないようにへりくだるのだ。

 逆説的にそれで生きていけるのならばたやすいもの。私のようにどけだけ悪口を叩かれていようが、総務課の経理担当している三井姉様のゴマをすっとけば間違いない。まぁ、お姉様といっても、定年退職秒読みのお局ですけど。

 そんなことを思っていたせいか、コピー取りをしていた時に総務課とは他部署のはずなのに三井さんに話しかけられてしまった。

「ちょっと、最近。あなた横田さんたちのグループに嫌われているそうじゃない」

 婦人モノのしわがれた声。二日会わないだけで三井さんの声は日に日に老ける。なんて頭の片隅で考えながら、横田さんこと横田芽衣子は女子トイレを我が物顔で、居座っている彼女たちのリーダーだった。いじめっ子代表取締役社長、と勝手に名付ける以上のことはしていない。業務に関係ない以上どうでもよかった。

「そのうち飽きてだれか別の人ターゲットにすると思うので大丈夫ですよ」

 と、我ながら大人の対応。三井さんは私のお尻をパスッと叩いた。同性じゃなければセクハラ案件。奥歯をちょっと噛みしめる。

「敵が多いうちが花さ」

 それが花であるのなら、私は花であることを望まないけど。

「頑張ります」

 なんてどう頑張るかの指針もわからない、あいまいな返しで乗り切った。午後も降り続ける雨の音がザーザーと。眠たい気持ちがものすごくて、瞼が鉛のように重いのだ。

 今日の夕飯はマカロニグラタンにしよう。そう心にきめて、退勤する五時半を待っていた。剥がれたネイルのピンクもまた好きになれずにポリポリと暇さえあれば削りとっていた。

 雨は止まない、帰宅の途中でスーパーによる。足りない食材はホワイトソースにするための小麦粉と牛乳。代替品がないのだからしょうがない。肉なら腐るほどあるのにと脳裏によぎる、手に取る食材に悩んでた。

 帰宅するころにはすっかり真っ暗。アパートの部屋に「ただいま」という習慣はない。ドサッと音を立ててテーブルにビニール袋を置く。薄暗い部屋だ、雨天ならなおさら。月明りもない。

 鶏肉のかわりを、冷凍庫から取り出す。肉の塊をよく確認すると、冷凍焼けがはじまっていた。こんな少量づつ消費していったら六十二キロの肉なんて一向に片付かない。わかってはいたけど、まだ成人男性としては細身なほうだろう。元彼がやせ型でよかったと思った。

「今度は焼肉にでもしなきゃいけないかな」

 ひとり暮らしは寂しいし、ペットでも飼おうかな。幸いにもボーナスで少し浮いてる貯金もある。この間、深夜の教育テレビでみたシマザメなんてどうだろう。水槽なんかも用意して、きちんとしたアクアリウムを作ればずっと眺めているのも楽しいかもしれない。それにサメは肉食動物だし。私と同じものを食べてくれるかもしれない。

 大好きなマカロニとあわせて食べる、ちょっと塩辛い肉は今日も元彼の味がした。


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マカロニはその辛味を知らない。 天霧朱雀 @44230000

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