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「そんな人は……いないよ。俺……ちゃんと認知するから。養育費だって……毎月ちゃんと……」


 気が動転して狼狽える俺とは対照的に、奈央は動じることなく俺を見つめた。


「認知……そうだね。ありがとう。この子の将来を考えたら、それは必要かもしれない。でも養育費なんていらないよ。私一人でちゃんと育ててみせるから」


「奈央……」


 感情が昂ぶり涙ぐむ俺。

 奈央は俺の頬に右手で優しく触れた。


「真……。私は幸せだったよ。真と暮らした年月は、一生の宝物だよ。かけがえのない命を、真から授かった。真……ありがとう」


 俺の頬に触れている奈央の右手を握った。


 このまま奈央の手を離さなければ、俺達の未来は変わるのだろうか……。


 奈央をこのまま……一人で行かせるわけにはいかない。


 だけどあまりにも突然のことに、俺は困惑している。


 ――『結婚しよう』そう言って、奈央を安心させたいのに、俺は奈央にプロポーズすることも、抱き締めることも出来なかった。


 奈央はお腹を庇うように、ゆっくりとベンチから立ち上がる。


「真、元気でね」


「産まれたら知らせて欲しい……」


 奈央は無言で背中を向けた。


 春風に浚われ桜の花びらが舞う。枝から離れた花びらは、もう二度と元には戻れない。頬を伝う涙のように、俺の足元にひらひらと落ちた。


 俺は立ち去る奈央の後ろ姿を、呆然と見つめた。


 周囲では、卒業生の楽しげな笑い声が響く。雄一と視線が重なり思わず目を逸らした。こんな時も俺は、他人の視線を気にしているなんて。

 

 校庭の隅に佇み、優柔不断で不甲斐ない自分を責め続けた。

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