86

 礼さんと視線が重なる。


『大丈夫だから、早く行って』


 礼さんの瞳が、俺にそう訴えかけていると感じた。


 心身ともに傷付き大丈夫なわけがないのに、涙で潤んだ瞳が『大丈夫』と、そう俺に語りかけている。


 俺は悔しかった。


 無力な自分が悔しかった。


 礼さんに何もしてやれない自分が悔しかった……。


 俺は拳を握ったまま、ギュッと唇を噛み締めた。


 本宮氏は勝ち誇ったように俺を見た。


 空の部屋に入ると、空が俺にこう言ったんだ。


「ダメだよ真ちゃん。パパに手を出したら本当に警察に通報しかねないよ。どんな手段を使っても、パパは自分が有利に立つ。警察だって検察だって権力には屈するんだ。だから、パパに手を上げた方が負けなんだよ。もうしないで」


「空、だったらどうやって礼さんを守ればいいんだよ。あれは単なる夫婦喧嘩じゃない。あれは家庭内暴力だ。礼さんは被害者なんだよ」


 事実をありのままに突きつけると、空は黙ってしまった。十五歳の少女にそんなことを言っても仕方がない。


 まして礼さんに手を上げているのは、空の実父なんだから。自分の父親が、非道なことをしていることは、空にも理解出来ているはずだ。


 俺と本宮氏が争うことは、空を深く傷付けることになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る