60

 怒りがおさまらない俺は椅子から立ち上がる。ドアを開けた時、玄関から人が出て行く物音がした。


 ガシャンと大きな音がして、玄関ドアは閉まった。数分後、車のエンジン音がして、車が走り去る音がした。


「……よかった。パパ……もう帰ったんだ」


 数ヶ月ぶりに自宅に戻り、妻に罵声を上げ、娘の顔も見ないで再び家を出て行く。夫としても父親としても最低だよ。


 俺は空と一緒に一階に下り、玄関に靴がないことを目視してリビングに入る。リビングに入ると床に伏せ礼さんが泣いていた。


 アップにしていた後ろ髪は少しほどけて、頬は赤く腫れていた。


「……礼さん。大丈夫ですか」


 俺は礼さんに駆け寄る。


「……ごめんなさい。私を見ないで……」


 礼さんは俺から顔を逸らし涙を拭った。

 MILKYで目にしていた凛とした強いイメージの礼さんが、俺の目の前で傷付き泣いている。


 家庭の中で見せた優しい笑顔が一瞬で壊されてしまった。


 空が悲しみを乗り越え、やっと日常を取り戻したのに。


 何で……


 どうして……。


 二人の静かな暮らしを、夫だからといってズタズタに壊していいのか。


 俺の胸は怒りと悲しみで締め付けられた。


 こんなにも繊細で弱い礼さんを、目の当たりにしたのは初めてだった。


 俺は礼さんを……放っておけなかった。

 硝子細工のように、パラパラと壊れてしまいそうだったから。


 礼さんに拒否されたとしても、俺の足は自然に前に進む。礼さんの前に跪き、泣いてる礼さんを両手で抱き締めていた。


「大丈夫だよ。もう大丈夫だ」


 礼さんは俺の腕の中で、せきを切ったように泣いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る