第19話 愛花と幸せについて

 黒屋敷がうごめく。振動させたのは、毅然とした愛あふれる愛花さんだった。愛花さん、一人で背負っちゃダメだよ。


「そうだ、俺も幸せについて考えたい――!」

「駿くんも立ち上がってくれるよね。やっぱり大した人だよ」


 俺も起立した。


「これまでは、偶然にも弘前で出会った雪に悔いていたくらいだった。真っ白で、ぼうっとした妖精の雪が、父親が大学教授だからとふらふらしているのかと思っていた」

「そんなことせんが。出入り自由の明るい研究室だ」


 おじいさん反抗期がほざいた。


「けれども、後に、雅也から大学院に進学したかったらしいと聞いて、もしかしたら、雪に可能性があるかと思うようになったんだ」

「人生を邪魔されたのかも知れないよね。生き甲斐を見つけたらいいよ。雪さんだって、進学を考えたってことは、頭脳明晰なのですよね。長所があるじゃないですか」


 愛花さんの話はよく分かる。草間ゼミは、院に女性をおかない。草間という鶴の一声だとは、本当だったんだな。


「私だって、百合子お母さんがもういないって分かるのまだ実感していないんだ」


 愛花さん。まだ、夜の徘徊がみられる。きっと、睡眠障害が治らないくらい辛いんだろうな。

 俺なんて、母さんが心臓の手術をしたときは、流石に栃木の実家へ帰った。病院の廊下は、待つ程に冷えて、空間も歪んで感じた。

 

「そうだ、この歌に聞き覚えがないか? 雪よ」


 ――俺は、歌い出した。


 ゆきんこ、ゆきんこ。

 ああ、あああ、ゆきんこさ。

 ゆきはええさな。

 こどもとあそんでいるうちは。

 いつかつれさってしまうべな。

 さあ、にげなはれ。

 にげなはれ。


「これは、何だと思う? 母さんが、雪を連れ去られた後、三年後、皆月駿が生まれて作った子守歌なんだ。俺は、てっきり誰のうちでも同じく歌っているのかと思ったよ」

「駿くんさ、『つれさってしまうべな』のくだり、これって、雪さん連れ去り事件のことじゃない? 今気が付いた」


 東雲教授が、苦々しく、近くにあった杖で、ドンと床をつく。


「連れ去り事件とは、失敬な」

「雪さん、よく聞いて。あなたは雪の妖精じゃないの」


 黙って聞いていた雪が、肩を震わせた。笑っているのか?


「じゃあ、何? 人、獣? ヤリ過ぎ女? くっ。あはは!」

「自暴自棄はやめい、雪」


 仮親と娘の喧嘩か?


「母さんが、子どもと別れても、いつまでも、『ゆきはええさな』と歌う気持ちも汲んでもらいたい」

「それは、綾乃の勝手だろう」


 ドンドンと苛々を表している。


「勝手なのは、草間東雲教授。ご本人です」


 愛花さんが、ズバッと指摘をすると、トートバッグを手元に置いた。


「俺も母さんから、雪の存在を聞いたとき、信じられなかったよ」


 俺は、共に生きることを考えたい。


「リュックに雪さんの大切なものが入っているよね。駿くん」

「ああ、あの控え目な母さんが、よこしてくれたんだ」


 そうだ。雪の大切なもの。俺だって驚いたさ。

 あんなに、東雲教授に対しての恐怖なのか、コンタクトを取ろうとしなかった綾乃母さんが動いたんだ。


「これは……。俺の母子手帳だ。ここにあるように、綾乃母さんは、お産が二度目だと分かる」

「だからって、皆月くんと顔も雰囲気も似ていない雪を姉と呼べるのか? 雪の母子手帳はどうしたんだ……。んん?」


 教授の首を捻る仕草は全く可愛くない。意地の悪い質問だし。質問で返事をするかな。


「では、誰が持っているのですか? 雪を強奪するとき、雪だけをさらったと聞きます」

「ぐぬぬぬ……」


 教授は、杖を一つ、地団駄がわりに使った。


「草間東雲教授、私、お願いがあります」

「そ、そうだった。俺からもお願いします」

「何だ」


 一瞥を送る。


「キッチンを貸していただけませんか?」

「喉が渇いたのなら、構わなくもないが」


 愛花さんが、大理石キッチンへと向かう。俺もそうするべきか考えたが、ここで、別のことをしよう。


「東雲教授とも雅也とも不仲な雪の状況。これは、孤独の骨頂だろうよ」


 ぐおほんっと東雲教授に吹き飛ばされそうになったよ。何せもう俺の卒業にもおさらばしたようなものだ。


「本当は、雪の母親と一緒に居たかったのではないですか」

「綾乃……。草間綾乃になる筈だった、婚姻前の綾乃に手を出そうとしたのが誤っていたよ」


 息子としては聞きたくなかったが、仕方がない。


「母さんと、そんなことが? 雪のことは、手紙で知っていたつもりだったけれども、人は分からないな」


 アレを渡さなければ。


「雪、これだけある手紙を手に取ってみろ」


 俺がリュックから取り出した手紙の束は、宝石よりも価値がある。雪の喃語なんごから、林檎が好きだと分かったり、あんよが上手になったら、プルトイのダックスちゃんが大好きだったこと。全て彼女からの手紙だ。だが、お別れのお手紙には、黒屋敷に仕事できていた自分が、教授のやっかみで、もう雪のことを綴れなくなったことが書かれていた。


 ――雪ちゃんへ。名前も言えないおばさんは、もうここから去らなければなりません。お健やかに。それだけが願いです。短い間でしたが、雪ちゃんのおばさんになれたことが嬉しくて涙が出ます。大人は、難しい感情で泣くことがあるのです。おばさんより。


 おばさんの手紙には、心当たりがなかったと思うが、雪が流石に打ち震えている……。


「神奈川からのスタンプできている手紙だった。ここまでの足取りは分かったんだが、その先、俺の綾乃母さんは、追えなくなってしまったという」


 俺もキッチンへと向かう。

 愛花さんと共にがんばるんだ……!


「幸せについて、考えましょう――」


 ついさっきの愛花さんの強い決意。

 俺も噛みしめた……。

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