第14話 愛花のガラスの靴は新しい

「――ママの所に、帰ってきて! お願い、雪! 雪! 雪……!」


 綾乃母さんは、履物も上着もお構いなしで、去りゆく車を追う。車中にて下女に抱かれている雪を見ることができたか否か。それも分からない。


「母さんが呻くと、天から降る赤ちゃん雪が、慰めるようにまとわりつく。雪は、最も愛してくれる母親、皆月綾乃を失ったのだ」


 俺は、母さんや雪が可哀想だとか、そんな安い言葉を使いたくない。同情なんて、愛情ではないから。俺の雪に対する感情は複雑だ。愛花さんに共に苦しんで欲しい訳ではない。ならば、どうして語っているのか。愛花さんには、正直でいたいからか。


「そして、家庭環境が変わり、今までどんな不遇な扱いをされてきたのだろう。草間東雲を父と呼ぶのか? 雪よ」


 ――俺は、雪の話を終えた。


 ぽつりぽつりと俺に語ってきた母さんの話がある。それに、何通もの手紙を読んで知ったものもある。それらを俺なりに絡めたものが、この話なのだ。


 ◇◇◇


 俺は、箸をぐっと握って、忌まわしい過去と対峙した。愛花さんはどうだろうか? いつもの裸エプロンお玉フリフリFカップからは想像できない。俯いて、ハンカチで目頭を押さえている。胡蝶の夢みたいだ。


「駿くん、私達、どこまでいくの……?」


 愛花さんが、くっと顔を上げたので、俺は引いた。悪いことを話してしまったな。

 彼女が絞り出した第一声は、難解な問題提起だった。


「どこまでって? 愛花さんと俺とのお付き合いが?」


 それは、定番の南野デパートまでと言うに決まっているでしょう。


「そう。真摯にお返事してくれてありがとう」


 やはり、真面目に答えないと、雅也に続いて別れなければならないのか。


「俺は、愛花さんに……。えっと、何ていうか」


 こんなとき、ミニお玉でインタビューしてくれたらな。和むんだけれど。愛花さんも佐原家の人だ。お茶目な面もあるけれども、根はしっかりしているな。


「今の気持ちでいいよ」


 二人の間で、どんどん鍋がダメになっていく。俺は、コンロの火を弱めた。ガチッという音が、俺達を割った気がした。煮詰まった出汁と浮き出た魚や野菜にキノコが目立つ。まるで溺れてしまったようだ。


「愛花さんは、俺にとって、一つしかないガラスの靴を履いてくれる女性だと思っている」


 愛花さん、俺は分からないよ。このタイミングで、煮えた具をとんすいによそるなんて。食べ物に手を合わせて、いただき始めた。そうか、勿体ないよね。


「ガラスの――」


 彼女が、ちょっとぽかんとした。


「そう、ガラスの靴だよ。愛花さん」


 俺もとんすいによそる。特に、好感を得ようとかではなくて、緊張でお腹も空いた。


「シンデレラみたいだと思っているんだ」


 出汁がしみしみの具もいいものだ。栄養を補充して、この難関を乗り越えなければ、恐ろしい別れがくる。


「私は、ハイヒールって纏足てんそくみたいだと思っているよ。そんなものどうするの? 私が自由に羽ばたくのを阻止するつもりはないと思う。でも、女の子は、そんなこと望んでいないよ」


 俺のアイデンティティがガラガラと崩れた。


「纏足? ガラスの靴は女の子の夢じゃないの?」

「寧ろ、男性の夢じゃないかな。都合がよすぎでしょう」


 ダメだ、この話はなかったことにしよう。俺は、じっとりとした汗を掻いた。今朝のシャワーは意味がなかったのではないか。


「ほら、ここ。帆立ちゃんが茶色くなって泣いているよ。駿くんにも取ってあげる」


 鍋肌に這わせて、帆立だけを上手くとんすいに引っ越しさせてくれた。


「まだあるよ。駿くん、沢山食べなよ」


 も、もう。我慢ができません……!


「ガラスの靴とか、もういいんだよ。俺は、愛花さんのそんなところが好きです!」

「え?」


 さっきのままだと、もうお終いだ。


「俺は、愛花さんを――。もう、言葉なんてないけれども……」

「はい?」


 だから、せめて嫌わないで。


「全てが好きなんです……!」


 座敷を立ち上がってしまった。直立不動だよ。


 そう、全てが。

 

「お玉を振ってご飯の合図をしても。Fカップ抱きつきで俺の男をくすぐっても。ときには怒って目が餃子になっても」


 俺は、饒舌になっている。


「ベランダで綺麗なさえずりをするキミも。お料理が好きで、あたたかいご飯を食べさせたいキミも。お母さんを失くして心が泣いているキミも。百合も美しいけれども、愛花さんは愛されて育った」


 牡丹の掛け軸の前で、頭を下げた。


「もう一度言います。何もかも好きなんです。お願いします。せめて、下宿においてください」


 愛花さんの気持ちを確かめたくて、瞳を探した。

 潤んでいて、イエスかノーか、分からなかった。


 分かったことはひとつ。

 まだ、生牡蠣を食べていなかったということ。

 一緒に食べたいね。

 何て呑気な願望は、もう未来のお天気じゃないかな。


「これが、俺の改めてできる空気のような靴です。さっき話したガラスの靴は、捨ててください。纏足なんて、愛花さんを縛るだけだ。洗いたての白いスニーカーの方がいい。それを心に、愛花さんへの気持ちは変えないで待っています」



 何て長い一日なんだ……。

 実家へ帰らないとならない事態にもなったよ。

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