第6話 愛花の夜は何の花
「佐原荘で、この頃、お化けが出ると佐原さんが言っていたな……」
手持ち無沙汰に、ゼミで発表する論文を弄っていた。しかし、勉強なんてしていると襲われる睡魔には、戦わずして降参することにした。
丑三つ時と思われる頃、物音がした。
カタリ。何かの動く音。
ごぞそそ……。何かを引きずる音。
俺は、布団の中にいた。足で、すりすりと畳を触ると、冷たくて気持ちがいい。二〇二号室で、得意技の皆月流熟睡をしていたが、珍しく、この音で目をこすった。
「何だ?」
俺が驚くのもその筈、部屋の半間ある入り口にぶつかってくる。ガラスを
「おい。お化けなのか? 佐原さんが、怖いと言っていたぞ」
俺は、佐原さんがお玉でゴンゴン襲ってきたとき用に、先日、武器を支度した。
「――これは、黒いお玉。悪いが、百均じゃない。税込み五百円もするんだからな。お化けの正体が泥棒だったら大変なんてものじゃない。何を盗むんだ」
少なくとも俺の所には、埃の被ったギターしか価値のありそうなものもない。
「これはガラスだ。お互い割れたら危険だから、戸を開けるぞ」
どすどすと、全身で、赤いバラが戸にアタックしてくる。
ガララ。ガラッピシ。戸はいつもより重かった。そりゃあ、お化けが押しているのだもの。
「ぬーぼーとしたお前をお玉で退治してやる」
カッツカッツと黒いお玉をかざす。何となく佐原さんがお玉をフリフリする気持ちが分かる。気分が高揚するな。
赤が揺れた……。赤いバラが、どんと俺の胸に顔を預けた。
黒いお玉で戦う前に、戦意消失だ。黒いお玉を落した。
「丑三つ時の赤いバラ――」
これは、真っ赤なフリルの多いネグリジェじゃないか……。佐原さん、愛花さんなのか? 自分でお化けが出ると言ったのに。
佐原愛花さんは、隣の市川さんが卒業していった部屋にたまに布団を敷きにくる。気分転換をすると言っては、休んでいる夜もあるようだ。
「まあ、男であれば、Fカップお玉ちゃんが隣室にいれば、鼻血ものだろうが、ハッキリ言って俺の流儀じゃない。俺は、佐原さんをそんな目で見たくない。裸エプロンで揺らしていても、それは、それ」
いつからだろう……。明るく笑いで佐原荘をあたためてくれる彼女が、俺にとって、哀しみのピエロのように浮かんでは消える存在になった。
「俺も甘いな。泣いちゃダメだ」
隣の布団に寝かさないとな。
「人の美しさは目に見えないものだと思う」
俺がチューリップの香りがすると思う理由は、多分シャボンのせいだ。その部屋で、皆の洗濯物を畳んだり、繕い物をしたりして過ごす。陽だまりを愛おしく感じる佐原さん……。彼女の愛らしい乙女ちっくな面も好きだ。
「今は、お化けの問題だったな」
ネグリジェ姿の佐原さんが、がくっと脱力してしまった。
「おおっと」
俺は、彼女を抱える。思ったよりも軽い。眠っている間は重さを感じないと聞く。まさか、本当にお化けになっていたりはしないだろう?
「佐原さん。俺だよ、皆月駿だ。寝言も言わないで、どうかしたの? お父さんの玲祐さんに話した方がいいな」
その言葉が佐原さんの心に触れたのか、体を仰け反らせて、俺の腕の中からくぐり抜け、再び歩き出そうとする。――だが、よろけて倒れてしまう。何故だか、俺の部屋に入ろうとガンガンと引き戸にぶつかる。鳥が見えない窓で命を落とすかのように。俺は、肝を冷やしたよ。
「危ないって。な、お部屋に戻って寝な」
俺は、手をとり、先を歩いて誘導した。何歩も違わないお隣の佐原さんのお部屋。二〇一号室は、彼女を抜け殻にして、チューリップの香りを失っている。
「一、二。三、四。そこ、敷居があるからね」
困った。俺は気軽にお隣へきたが、女子部屋を見てしまった。いや、問題はそこではない。
「百合だ……」
そこは、切り花の百合の花が所せましと並べられている。しかも、鬼百合などは一切なく、リリー・カサブランカしかない。白百合だ。
「百合の部屋に、いつからかなってしまっていた。大きな白い花の体を揺すり、雄蕊がアクセントにオレンジを塵にしている」
水彩画か日本画かという世界に圧巻だ。
「う……。うああ……」
「どうした? 佐原さん」
このむせかえる百合の香が、佐原さんを目覚めさせたのだろう。
「ああああ……」
俺のパジャマを痛い程に掴む。
「俺だ。安心して、何でも話して」
それから暫く、俺の胸で彼女は丸くなっていた。
「ごめん、悪かった。無理しないで。何も話さなくてもいいんだよ」
ぎゅっと彼女を抱くと、顔を上げ、オレンジ色の瞳が語った。
「お母さん……」
俺は、もうこれ以上、彼女の瞳以外を見られない。惹き付けられる。それは、恋とかではなくて、もう、愛なのだろうか。
大学のことで野に下る思いをした俺が、佐原荘に辿りつき、百合子さんにも愚痴を聞いてもらっていたな。
「そんな気はしていたんだ。お母さんの名は、百合子さん。愛花さん自身にまといたい程に、愛していたんだね」
佐原愛花さんは、下の部屋で休んでいるお父さんに気付かれたくないのか、静かに涙を零した。その涙を俺は、唇で拭った。
「こ、後悔しないからな」
◇◇◇
――所謂、夢遊病は、睡眠時遊行症とも呼ばれる。
哀しみの花を愛花さんに贈ろう。元気になる花も添えて……。
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