心の花

第3話 愛花の胸はあたたかい

 佐原だって? 振り向いて、あのFカップ裸エプロンではないことを誓おうと思った。


「俺は、皆月ですが。あ、失礼しました。草間東雲くさま しののめ教授」

「ああ、佐原荘の彼女と間違えたよ。悪かったなあ」


 草間教授、何故、佐原荘のことを? 疑問に思いながらもゼミの部屋へと吸い込まれていった。長く開けていないらしく、木の匂いがたき込める。カーテンを軽く開けると、チンダル現象に襲われた気分だ。椅子を引くと、俺の席にも埃があり、数人のチームと雑巾掛けから始めた。


「よう、皆月。就活はどうよ」

「おう、我が友よ。やっと卒業だな。就職は、今はちっとな」


 綺麗になったと満足して、腰掛けた。ギターを弾くときの癖で、足を組みたいが、お下品なので我慢した。すると、どうだろうか。違和感がない。そんなにギターを忘れてしまったのか。


「無粋な俺なんかに声掛けてどうしたよ。我が友、貝塚雅也かいづか まさやよ」

「いやあ、ゆきさんのことで……」


 ひょんなことからその名を聞く。


「雪?」

「ああ、たまに皆月と一緒に歩いていただろう。可愛いじゃないか」


 あれはあれで、可愛いのかな? すると、教授がプリントを持って現れて、今後について語り出した。俺は、悪いけれども、殆ど聞いていない。


「俺、二十二歳。お前は二十三歳。雪はいくつに見える?」

「JKじゃないの?」


 ぶっ。JKはないよな。女子高生は。ぶぶぶっ。


「騙されたな、雅也くん」

「もっと若いとか?」


 『ゆきんこ、ゆきんこ……』

 わらべ歌が聞こえてきそうだ。あれは、精霊だよ。ね、皆月の綾乃あやの母さん。


「雪の精霊だから、分からない――」

「ふざけるなよ、男の恋心を!」


 草間教授は、うるさい学生がいても注意をしない。だから、なめられているというのは噂だ。


「まあ、そう言う訳で、諦めて」


 俺は久し振りに軽く笑った。雪の精霊を思い出したからだ。


「――そうした訳で、今度新しいプラスミドによる組み換え遺伝子のチームを分けることになった。希望者は、名簿に印をつけてください」


 暫くぶりで、ゼミの名も忘れていたが、病理学のウイルスチームだったんだな。ウイルス、好きなんだけれども、いつから大学が苦手になったんだっけ。文学部のはずなんだがな? ん?


 ◇◇◇


「さて、帰るか」


 荷物をまとめていると、お腹が鳴った。


「その前にお腹が空いたなあ。しかし、下宿では、平日は基本朝と夕の二食だものな。お金は、ないぞっと」


 外へ出て伸びをする。見れば、佐原愛花さんが、総合研究所から出てきた。一人ではないようだ。お友達か? いや、あれは草間教授じゃないか! 佐原さんに何をするんだ。Fカップにぼよーんとか、セクハラ行為を働いたら許さねえ。


「おい、佐原さん。何しているんだ。今は佐原荘にいる時間だろう?」

「ちょっとね。用があったの」


 ちっ。買い物の時間でもないじゃないか。苛々するな。


「どんな用だよ。その草間教授とどんな用があるんだよ」

「困ちゃったな。私は、悪いことしていないよ」


 ちょこっと歩いて俺の所へくる。俺が、何かを言いたくて彼女の腕を掴むと、勢いよく引っぺがされた。手首を押さえたりして、まるで被害者面だろう、そりゃ。段々苛々が止まらなくなってくる。


「あのね、ちっちゃなお手手をぽよんなお胸にあてたって、かわいくも何ともないよ」

「な、何ですって? 私がぶりっ子だとでも?」


 佐原さんが、肩を揺らす。ふるふると、手に持っていた、何かを取り出した。それは、お玉だ。何故。大学に?

 俯き加減の顔から、目元に光が宿る。餃子みたいなお目目のイカリーモードになった……!


「やっばい。落ち着くんだ佐原さん。お玉をしまって」


 どうして、お玉が凶器になっちゃうんだろうな。夢の料理研究家によほどなりたいのか、料理が本当は嫌いなのか。


「止めなさい。墓参りするんだろう。これから……」

「墓参り? 草間教授のですか?」


 教授は、首を横に振った。それもそうだ。佐原さんと一緒の意味が分からない。


 日が高くなり、お昼だと分かる。その時分、構内にある一本道の遠くから、誰か知った影が近付いてくる。そして、ひょっと手で合図をした。


「そうよ。草間教授は、お母さんと懇意なんだから」

「お父さんは? 本当の愛花さんのお父さんは誰なのさ」


 恐怖の三角関係。ではない。ははは。


「それは、パパちゃんよ。駿くん」

「要するに、佐原玲祐さんのことだ。――昨日、お彼岸でもないのに、果物をいただいたよ」


 えーと。俺だけあぶれています。俺だけっす。


 ◇◇◇


 俺らは、四人で桜中央さくらちゅうおう線に乗り込んだ。比較的空いている時間だったが、俺の隣は、ぴとっと佐原さんがやってくる。


「今から、お帰りイベントしようね! 駿くん」

「何そのギャルゲー。やったことないよ」


 ゲームでもキスシーンがあると聞く。いいなあ。テレビのは一瞬で終わっちゃうから、ラテ欄に、唇マークをつけて、今回はキスシーンがありますって教えて欲しいよ。結構本気だ。


「めーめー、駿くん。やったことあるんじゃん。ねええん、寂しい思いをさせて、ごめんなちゃい」

「ちゃい……。他人の赤ちゃん返りは、見ていて笑えるものがあるな」


 ガタン。

 特にカーブはなかったのに、電車は大きく揺れた。シートベルトなんてないものだから、佐原さんが消えたじゃないか。


「お……。佐原さん?」

「むににー」


 な。……何だと? 何て所に、顔を埋めているんだ! 俺の心の臓は、バクバクバクバク……。バクッ!


「はー。心臓が止まりそ――」


 そこまで言い掛けて、下にいる佐原さんの上目づかいに、くらっくらっした。何時から付き合っていましたっけ? あり得ませんよね。


「ねええん。何で、駿くんは、そんなに真面目なの?」

「知らないよ。俺が聞きたい」


 フグがギターを弾く時代だ。色々あっていいだろう。


「あまり、真面目すぎない方がいいよ。はい、チュッこ」


 ギギギギー。ギシシ……。

 軋みの甚だしい路線だったが、無事に、目的地の桜三門前さくらさんもんまえ駅についた。


「いやーん」


 下車するとき、佐原さんの何事かと思う悲鳴に焦った。俺は、まさか裸エプロンなのかと振り向いたが、錯覚だったようだ。


「きちんと黒いワンピースをきていてよかったな。それでも、はち切れんばかりのナイスバディだが」


 いいか、これは褒め言葉だ。佐原さんが年中風邪を引くような格好をしているからだぞ。


「何? 私だって――」

「ごめん。場違いな発言だったよ」


 佐原愛花さんのお母さんなんだ。俺の大切な母さんが同じく天へ昇ってしまったら、こんな所にいないよ。さっさと栃木へ帰る。


「ああ、探して帰ろうとしたお嫁さんがいないや! 困ったな」


 俺が頭を掻いていると、肩を叩かれた。


「皆月、どうかしたか。緊張したのか」

「草間教授、失礼いたしました。俺は大丈夫です」

「すみません。先生、皆月は混乱しがちで。若いですからね」


 生ぬるい春の風が舞い踊っている。風花が一ひら、二ひらと、お母さんの頬を赤くする。


「これが、佐原荘の百合子さんが逝った先なのか……」


 つやのある黒い石の塊に飲み込まれているのだな。


「お線香だよ」

「お父さん……」


 百合子お母さんのお墓に俺は頭が上がらない。手を合わせ、深く頭を垂れたよ。


 今日、お墓参りしている理由が分かった。


「――月命日なんですね」


 何だか分からない水はしょっぱくて、前がよく見えない。


「佐原愛花さん、何て言ったらいいのか分からないよ。不甲斐ない」

「じゃあ、今度でいいから、ギターを弾いてあげて」


 俺は、久し振りに嗚咽を彼女の胸に任せた。やわらかくて、心からあたたかいと思った……。

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