第2話 愛花に出逢うカウントダウン

 ゼミがあったので、大学に顔を出した。

 文学部のありふれた学科だ。俺は、文章を書くことを卒論のテーマにしている。


「ここも桜が咲いているのか」


 一陣の風が吹く。俺の頬を千切れた桜が打つ。足元は冷たい雪が融けずに残っている。


「思い出すな。三年前の春を……」


 ◇◇◇


 ――父さんと揉めたっけな。


「駿が幼い頃に喘息になったから、父さんは、煙草をやめたんだ。それなのに、未成年が喫煙など許されると思うか!」


「それくらい、誰だってしているさ。この皆月家はお堅いんだよ。分からないかな」


 遅い時間に帰ってきて、父さんと直ぐに言い合いだ。こんなことはしょっちゅうだ。

 俺は、栃木の国立大学に落ちた。もともとボーダーラインだったが、一縷の望みを掛けていたんだ。


「駿さん、大丈夫。あれだけ、勉強したんだから」


 母さんは、はんてんを掛けてくれ、あたたかい飲み物をあれこれと持ってきてくれたものだ。これには、素直に参ったよ。慌てて煙草の火をぐっと消した。


「母さんだけだな。買いかぶりすぎだよ」


 急ぎ、自室の窓を開ける。夜は、まだ冷え込む。遠い月明りを見て反省した。


「ごめん……。母さんこそ、重い喘息持ちだったね」


 発表の日、母さんが合格発表を見に行って、公衆電話で連絡をくれた。俺が、黒電話で受ける。


「……分かった」


 結果は、無残なものさ。


 後日、滑り止めに受けた私立弘前第一大学から郵便が届いた。封書の厚いものは、入学案内。薄いものは、サクラチル。そんなこと分かっている。


「もう、まぐれだ。弘前第一大学からだ……!」


 封書は、母さんと開けるんだ。


「母さん! 母さん!」


 二階で洗濯物を干していたようだ。


「どうしたの? 駿はきっと受かると思っていましたよ」


 間もなく、俺は荷物を佐原荘へ送った。単身、大切な楽器のギターだけを持って弘前へ向かえるように。


「まだ、あきた新幹線が在来線を利用して工事中だ。北上きたかみ駅で乗り換えとなるな」


 これもまた一興と、駅弁などを買い込み、ギターを窓際に置いた。細身の俺でも狭いと感じるわ。


「す、すんません」

「いやいや、お互い様です」


 俺のギターのせいで、隣席の背広をきた男性が、窮屈になってしまった。そこまで考えていなかったので、申し訳なく思った。


「あの。間違えてお茶を二つ買ってしまったので。よかったら、あたたかい内に」

「お気遣いは大丈夫なのですよ」


 紳士っているものだな。そう言えば、父さんは、外ではどんな人なのだろうか。それも知らずに息子ですだなんて、おこがましかったか。


 そして、二ツ井ふたつい駅を後にしたあたりだ。


「あのさ。これ、楽器ではねえべさ?」

「はい。ギターです」


 今度は、ゆったりと座っていた。離れた席のおばさんだった。


「ギターって、ええなあ。聞きてえなあ。おめさ、どこさいく?」

「弘前第一大学へ。春から入りに行くのですよ」


 首がもげそうな程、関心してくれた。何だ、ちょっとあったかいじゃないか。


「在来線も終わりか……」


 ――弘前ー! 弘前ー!


 訛り響くアナウンスが俺を迎えてくれた。 

 弘前第一大学は、ハッキリ言えば滑り止めだ。分かっている。でも、進学しないと、希望の研究職につけない。

 ギター一つで、やってきたんだ。これから、どうすっぺなあ。と、栃木弁で対抗しておこう。


 ◇◇◇


「こんにちはー! 私、愛花。佐原愛花よ。こちらは、お母さんの百合子ゆりこです」

「佐原です。これから、よろしくお願いいたします」


 げ、元気いいなあ。こっちはしょんぼり第二志望なのに。中学生か? でも、バストがハツラツとしているぞ。


「はい、こんにちは。中学生さん」

「大学生ですけど」


 腕を組んでいるよ。腕組みしちゃってるし。ここに金属バッドがあったら、鬼だね。


「大学生ってことは、何歳? 俺、十八歳の皆月駿。よろしくな」

「二十一歳!」


 本来、俺から差し伸べる手を彼女から差し出された。その上、ブンブンと振られた。まあ……。あれも、ゆっさゆっさと。かな?


「愛花。大好きなお名前なの。これで呼んでね」


 入学したら、もの凄く早い。五月病みたいなものになり、喘息ですと内科を訪ねては、点滴を打っていた。一回に三千円も掛かるので、お財布が枯渇している。あるとき、斎藤さいとう医師がすすめた薬があった。後に、安定剤だと分かる。


 俺は、なんて甘ちゃんなんだろうか?


「やる気、ないねー。ウイルスさん、ばいびー」


 手の甲に何度も刺した点滴痕を見ては、赤ちゃんになってみる。


「手も心も痛いでちゅね」


 ごろごろごろごろ。ろごろごろごろご。


「はい、ご飯ですよ! 皆月さん、市川いちかわさん」


 ご飯なんて、食べなくても死なないでちゅよ。


「ほーら、こいこい。食べにおいで」


 ガンガンガン。ガンガンガン。

 うおお? 何の音だ? 火事の避難訓練か?


「これ、愛花。お玉で鍋を叩いたらいけませんよ」

「だって、お母さん。早くあたたかいものを食べて欲しいんだもん」


 ふおお。びっくりしたな。


「朝ご飯の合図か。佐原愛花さんは、変わっているな」


 俺は、この二食昼寝付きの生活に甘んじようとする。悔しさもあってか、ぐうたらぐうたらしていた。


 ごろごろしては、漫画を読み、ギターなんて、埃を被っていた。廊下でバッタリ愛花と会うと大変だ。


「佐原荘にくるとき、持っていたギターは? カッコいいの」


 ないよ。そんなの。


「ギター、聞きたいな。できたら、愛のだっけ? ロマンスがいいな」

「今度……」


 身長、恐らく百五十五センチ程の佐原愛花さんのおでこを押すのは、尻ごみしたが、裸エプロンで迫って来るので致し方ない。Fカップ、ぷるるん攻めは、かわしたくても勿体ない。

 ぷ、ぷるんと寄ってくる。


「ぴとっ。いいかな? 駿くん。私、あたたかいでしょう?」

「あ、あ、あたたかいですけれども? 俺は騙されませんよ?」


 ガーンとピンクの百均お玉が俺の脳天をついた!


「佐原さん、痛いじゃん。危ないでしょう!」


 ぐおお。頭をしっかと押さえるが、痛いのなんの。


「Fカップでも揉んでなさいよ」


 これで年上か……。その手には乗らない。


「くううう。頭が痛いんです」

「裸エプロン歴は短くないよ」


 えっへんと胸をはると、危険なことになるからねっ。ねっ。


「それ、自慢にならない。どうしてそんな格好をしているの?」

「恥ずかしがり屋さんだから」


 俺は、この変な娘に本気で頭を抱えた。


「むー。むー。答えになってない」

「……あのさ。お母さんもギターをつま弾いて欲しいらしいよ」


 一瞬、目が覚めた。


「は?」

「元気出してってこと!」


 愛花さんは、少し照れて下へ駆け下りて行った。


 佐原荘のお母さんには、お茶菓子を持ってきては、話し掛けてくださり、随分とお世話になっている。それなのに、ギターは一度も弾いていない。恩知らずもいい所だ、俺は。


「その曲なら、指が覚える程弾いたのにな」


 そんなお母さんとの懐かしい想い出は、なだらかな川を流れてしまった。いつまでも小さな雪を運ぶように。


 ◇◇◇


 突然だった。俺が四年生になったこの春、百合子お母さんがいなくなったんだ。


 ――間もなくして、佐原愛花さんが下宿を切り盛りし出し、お玉をフリフリあったかいお料理を拵えてくれるようになる。


 お玉で殴るのは遠慮しているらしい。


「百合子お母さんかあ……。感慨に浸るじゃないか」


 ◇◇◇


 歴史あるゼミの掲示板は、相変わらずだった。何にもないんだ。名簿が貼ってあるだけ。


「ゼミの掲示板に変わりはなしっと。一体、張り直しているのか?」


「佐原」


 急に肩を叩かれて、どきっとした。誰だろうか?

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