第45話 メイド(♂)喫茶

 ざわ。

 教室内の空間が歪んだかのような囁きの波が伝播していく。

「うそ。あれ誰?」

「えーと、西田くん、木村くんはあそこにいるから……」

「マジ? あれって……」

「前川くんってことぉ?」


 皆の注目を集める人物のメイド服に胸のところの名札にはしっかりと名前が書かれている。墨痕淋漓と「前川圭」の文字が躍っていた。もちろん宇嘉直筆である。細部まで手を抜かないその姿勢に頭が下がるが正直気合を入れ過ぎという気もしなくもない。


 圭太はにこりとほほ笑むと頭を下げて言った。

「皆さま、今日一日よろしくお願いいたします」

 少々女性としてはハスキーぎみだがきちんと抑揚を訓練された声で耳に心地よい。呆然とした時間が流れた後に熱狂が訪れた。


 噂は瞬く間に校舎内を駆け巡り、2Cの教室は様子を見に来た生徒たちで一杯になる。

「お帰りなさいませ。ご主人様」

 声をかけられた生徒がポカンと圭太の顔を見つめた。


 1年生の後藤だった。現在のあだ名はメイド喫茶である。以前宇嘉が圭太にケチャップでオムライスに文字を書いているのを見て不用意な言葉を漏らした故の二つ名だった。

「すぐにお茶の支度をいたします。銘柄のご指定はございますか?」

 返事をすることができずにメニュー表の上の文字を指さす。

「ダージリンでございますね。すぐにお仕度いたします」


 なんだかんだで劇の練習をしていたのも役に立っている。圭太は心をからっぽにして役割を演ずることに集中していた。次から次へと来るお客をさばいていく。回数をこなしているうちにどんどん仕草も洗練されていき、用意していた飲み物とお菓子が飛ぶように無くなっていった。


 最初は男子中心だったのだが女子もお客としてやってくるようになる。憧憬の眼差しを向ける相手が男だということも忘れているらしい。男として見られる場合にはそういう経験は無かったが、誰かに見られるという感覚は悪いものでは無かった。だんだんと圭太も楽しくなってくる。


 じっと見てくる相手に対して、小首を傾げて問いかける余裕すら生まれていた。

「私の顔に何かついておりますでしょうか?」

 顔を赤らめてしまう人も出てくる始末である。そして、何十人か目のお客に対して下げていた頭を上げると市川冴子が立っていた。


「お帰りなさいませ。お嬢様」

「ああ。うん」

 市川の反応がぎこちない。いつもなら圭太の事をぶっ飛ばしそうな勢いなのだが今日は違った。


 宇嘉の指導で身につけた手さばきで紅茶を注ぎ終わり立ち去ろうとする圭太を市川が呼び止める。

「なあ、お前、本当にあの前川なのか?」

 圭太は返事をせずにトレイを胸の所に抱えて深く一礼するとその場を立ち去った。


 背中に目がついていないので知る由も無かったが、圭太の後姿を見つめる市川の視線は熱い。ほうと息をして紅茶を口に含んだ市川の顔が緩む。なかなかの味だった。本当なら向かいの席にを座らせたいところだが、さすがに学校のイベントでそこまでのサービスはない。


 飲み物と一緒に出されたスコーンにクロテッドクリームとジャムを塗りつけて口に入れながら市川は思った。悪くない。もちろんスコーンの味ではなく、圭太の女装姿についてである。もともと女の匂いを濃厚に振りまくタイプは好きではない。宇嘉が市川の好みの真ん中だとすれば、女圭太はそこから少し外れたところに位置した。


 忙しく立ち働く圭太の姿を目で追いかけていた市川だったが、目の前の皿もカップも空になってしまったので仕方なく席を立つ。出がけに営業時間を確認すると教室を出て行った。


 そしてお昼の時間になると宇嘉がやってきて圭太を外に連れ出す。それまでは実は替え玉ではないかと疑っていた者もこれで考えを改めざるを得ない。やはり、あれは前川なのだ。何くれと世話を焼く宇嘉が準備をした昼食はいつもに比べるとそっけないものだった。


 サンドイッチと飲み物、それにクリスプである。チップスではない。服装に合わせてブリティッシュな伝統メニューにしたのだった。クリスプの袋を開けようとする圭太を宇嘉が止める。

「それは後よ」

「え? そうなの?」


「良く分からないんだけど、サンドイッチを食べ終わってからが正式な英国式のマナーみたいなの」

「そうなんだ。ということはデザート扱いなのかな?」

「その辺りは良く分からないんだけどね」


 比較的にジャンクな食事を終えて圭太は足の脹脛を揉む。

「どうしたの? 疲れちゃった?」

「そうだね。普段はあまり立ったままってことがないから足が張っちゃって」

「私がやってあげようか?」


「この場所で? さすがにそれはどうかと……」

 ためらいを口にする圭太に宇嘉はいたずらっぽく笑いかける。

「だって、今、私たちは女の子同士何だから問題ないでしょ」

「でも人前ではちょっと……」

「じゃあ、人前じゃなきゃいいのね。分かったわ。夕方にうちに来てよ。マッサージしてあげるから」


「いいよ。そこまでしてくれなくても」

「水臭いなあ。遠慮することないじゃない。どのみち衣装も返してもらわなきゃいけないんだし」

「クリーニングに出してから返すよ」


「そんな気を使わなくていいから。それにこの衣装は専門の業者さんに出さないといけないし」

「でも、なんかそれじゃあ、お世話になりっぱなしで悪いよ」

「いいの。いいの。私が好きでやってるんだから。あ。夕食はイギリス料理じゃないから安心して」


 最終的には、圭太は訪問の約束をすることになった。家に帰って敏郎に顔を合わせたくないというのもある。最近は少し仕事が落ち着いたとかで早く帰宅するのだが、あの1件以来微妙な空気が流れていた。いきなり扉を開けたことを敏郎は謝罪し見た物に関しても追及してこないがやはり気まずいものは気まずいのだった。


 教室に戻って午後も忙しく接客をする。交代制の為、今日1日やれば圭太の割り当てが終わるのを心の支えに最後の一頑張りをした。宇嘉のお陰で見っともない姿をさらすことなく終えられそうなことに心の中で深く感謝する。他の同級生のメイド姿はかなり珍妙だったことを考えると借りは大きかった。


 何かお返しをしなくてはならないよなあ。お礼になんでもいう事を聞くと言ったらどういう事になるのだろう? ちょっと手が空いた隙間時間に圭太は考える。満面の笑みを浮かべる宇嘉の笑顔と「結婚して」の言葉が脳裏に浮かぶ。圭太は頭が痛くなった。

 

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