第17話 黄素妙論
「山吹っ。隠れてないで出てきなさい」
宇嘉がメスを片手に屋敷の中を探し回っていた。セイメイノキケン、シキュウニゲロ。石見の連絡を受けて30分前に山吹は姿を消している。連絡が無ければ今頃は惨劇が起きていたかもしれない。悶絶する山吹と切り取ったものを自らの体に当ててスキップする宇嘉。そうならなかったことを石見は感謝する。
「お嬢様。落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか……」
宇嘉はメスを放り投げると柱に縋りついて、オイオイと泣き出す。先ほどまでの毅然とした態度が嘘のようだった。
「脂肪の塊ごときに後れをとるなど……悔しくて、悔しくて」
石見が宇嘉を後ろから優しく抱きしめた。
「お気を確かに。圭太さまのお言葉ですが、所詮は童貞の戯言に過ぎません。男女の交わりにおいて、胸などオプション。例えるなら、刺身の盛り合わせに添えられた穂紫蘇もしくはステーキの脇のクレソン、北京ダックに並ぶ胡瓜の細切りくらいの価値しか無いのです」
石見が宇嘉の肌をそっと撫であげる。その指使いに宇嘉はゾクリとした。
「この滑らかな柔肌と一度体を合わせてしまえば、胸のことなど忘れてしまうに違いありません」
自信をもって断言する石見に宇嘉は振り返る。
「そう……でしょうか?」
「はい。この石見の言葉に偽りはございません」
「でも、圭太とどうやってそのような深い関係になればいいのでしょう?」
「今日の1件でも分かるように、圭太さまの胃袋は完全に攻略済みです」
「それは……そうですわね」
「食事を餌におびき寄せて、圭太さまを頂いてしまうのがいいでしょう」
「あまり力づくというのはしたくないのですが」
「そこはまたゆっくりと考えましょう。それよりもまずは目先の障害を排除いたしませぬと」
宇嘉の目に生気が戻る。
「そうでしたわ。まずはあの西瓜女を倒さなくてはなりませんね」
「はい。百聞は一見にしかず。お嬢様こちらへ」
石見は宇嘉をAV機器が並んだ部屋へ案内する。
「こちらをご覧ください」
石見が電源を入れて再生ボタンを押す。大型モニターの中に冴子が中央に現れた。空手部での練習風景だった。
「得意としているのは……これです」
左足を軸にしてくるりと回転し右足を使った回し蹴りが鋭く対戦相手を蹴り飛ばした。男性であれば同時に遠心力で大きく膨らむ部位に目を奪われるところだが二人には関係ない。
「これは侮れませんね」
「はい。確かにいい動きをしています。ですが、お嬢様を捕らえることはかないますまい。元々スピードではお嬢様に分があります。さらに手に内を知っている以上お嬢様がかなり有利でしょう」
「ちょっと狡いような気もしますが……」
「いえ。お嬢様。戦いにおいて料敵は基本中の基本。別に恥じることはありません。それよりも油断めされぬよう。まだ、人には見せていない秘中の技もあるやもしれません」
すっかり余裕を取り戻した宇嘉が笑みを漏らす。
「石見。肝に銘じておきますわ。そうですね。万に一つも負けるわけにはいきません。そうそう。山吹を呼んでちょうだい。もう切り刻んだりしないから、スパーリングの相手を務めなさいと」
***
日曜日の昼前。圭太は両親と遅めのブランチを食べていた。昨日は家に帰ったときにリビングに両親の姿は無かった。顔を合わせずに済んだのは良かったものの、夕飯も食べずに寝てしまったことで、遥香に何か言われるかと心配したが、今のところは特に何も言われていない。
両親ともに肌の色つやも良く、息子の不在をいいことにエンジョイしたのは明らかだった。
「圭ちゃん。昨日はどうしてたの? 詮索するつもりじゃなくて、ちゃんと食事はしたのか、ってことよ。昨日は私が作れなかったでしょう?」
なんで作れなかったのか。もとい、作らなかったのか。それを思い出してちょっぴり恥ずかしそうな遥香であった。
「高校の友達に誘われて花見をしてた。そこで食べたから大丈夫だよ」
「涼介くんに誘われたの?」
「いや。別の友達」
うっかりそう言ってから圭太はしまったと思った。涼介と言っておけば良かった。
「あら。早速、お友達ができたのね。良かったわ」
遥香は目を細めて圭太のことを見ている。
「しかも、お料理が上手な女の子なんて」
遥香がさり気なくジャブを繰り出す。
「ど、どうして、料理が上手だなんて分かるんだよ?」
「女の子ってところは否定しないのね」
嬉しそうに笑う遥香としまったという顔の圭太。まんまと誘導尋問に引っかかってしまっていた。
「だって、お夕飯を食べないぐらいですもの。それだけ食べちゃうってことはよっぽど料理上手ってことでしょ。ねえ、お母さんとどっちが上手?」
「……」
圭太は黙って答えない。うかつにしゃべると次々と情報を引き出されそうだった。
「あら。黙秘するのね。そう。肌を密着させちゃうほど親しい相手とどちらが料理上手が知りたいのに」
圭太は飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになった。
「は、は、肌を密着ってなんだよ。適当なことを言ってんじゃねえよ」
いつもなら言葉遣いをたしなめる敏郎が黙って立ち上がるとダイニングから出て行った。遥香は猫のような笑みを浮かべる。例えるなら部屋の隅に鼠を追い詰めた時のような。
「やあね。圭ちゃん。恥ずかしがることないのに。そんなこと言ったってお母さんは知ってるのよ」
知っている? 圭太は一生懸命に頭脳を働かせる。まさか、うちの両親も桜を見に来ていたのか? いや、それはあり得ない。薬局で大容量パックを買って備えていたんだからベッドから出てきたはずがない。それに、もし目撃をしたのなら、その場で遥香が絡んでこないはずが無いのだ。
「カマをかけても無駄だからな」
「別にそんなんじゃないのに。だって、圭ちゃんの着ていたTシャツから、いい匂いがしたから、母さんには分かってるのよ」
「え?」
息子のTシャツの匂いを嗅いでいるとは誤算だった。さすがはこの母親といえよう。
「あれは絶対に圭ちゃんの香りじゃないわ。年頃の女の子と……何かお香のようなものが混ざった感じだったわね」
圭太が勝ち誇る遥香の前に敗北感を噛みしめていると敏郎が戻ってきた。
「圭太。ついにこれを渡す日が来たようだな。これを熟読して失敗の無いようにしなさい」
敏郎が手渡すものに圭太が視線を向けると一冊の本だった。現代語訳『黄素妙論』とある。圭太は不思議に思った。急にこんな難しそうな本を持ち出してどういうつもりだろう?
「これは、かの松永久秀も愛読したという指南書の現代語訳だ。松永久秀は知ってるよな?」
ぼんやりと頷く圭太。茶の湯の勉強でもしろっていうのかな?
「父さんもこれで学んだんだ。ガセ情報も混ざるネットよりも確実だぞ」
なぜか遥香が頬を染めていた。
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