ジョン=ミハイローレ奇譚

湊歌淚夜

第1話

1:青い空はどこまで行ったとしても青い空なのか、そう思い立って少女は駆け出した。少女と呼ぶのは私の立場からするのならば酷く烏滸がましいこと思われますが。


そうカーシヴで描かれた文字が静謐に眠るアルバムを1ページ、1ページとめくり感傷に浸ることが出来るのは、時間の中に置き去った純粋のせいなのかリナが思い出すすべはそこになかった。アルバムをパタリと閉じる。今度開くのはいつのことか考えを巡らせても、これを開く時はまるで今のように心理的な余裕のない時なのだろう。リナには生まれた時から、運命の人という美しい幻想は叶わないことを約束されていたのだった。名門ルルー家の次女として生まれた自分は子供ながら母親から昔から吹聴されている。


リナ、貴方は選ばれた子なのよ。お姉ちゃんのミルとは違って、王子様がいるの。それはずーっと昔から決まってたことで、お母さんもおばあちゃんも皆そうやってこの家で育ってきたのよ。


あの時の母親の目は慈愛とほんの少しの哀しみが映り込んで見えたような気がするけど、記憶の中の私は純粋無垢で疑うことも知らず時間の結晶に閉じ込められていた。後悔の念が溢れてくるけれど、これでよかったと思えている。何故なら、もしも私が「なんでそんなに悲しげな目をしているの」なんて聞いてしまえば、母をさらに追い詰めていたのかもしれない。実際その頃眠れず、母の寝床に行った際何やら白い粉末を水とともに飲み下している、何とも奇妙な光景に出会ったことがあった。その時の母の瞳は血走っていて、山姥を見てしまった心地であり、その場で泣き崩れてしまう。豹変した母の姿にリナは言葉を失った。徐々に現実から逸脱していく彼女からのその言葉だけが根付いて自分の中で育ち、伝承は木となった。


「リナ様……?入りますよ」

使用人のヘンリーが部屋にやってくる。初老の彼の髪は白髪が混じり、初めてであった頃の若さは翳りを見せていた。しかし彼の瞳から覗ける熱量はあの時から全く変わっていない。

「確かに貴方にとって、婚約は辛いことやとしれません。しかし、それは我が家のしきたりでして……」

彼の瞳の中の炎は揺れ動き、その言葉が本心でないことは長年そばに居たリナにははっきりとわかった。仕事柄とはいえ、物心着いた頃からそばに居てくれていたということもあり、ヘンリーには自分の考えは見透かされている。逆も然りで、何となく程度だけど、リナにも彼の表情から察するようになっていた。

目を閉じて、ルルー家での日々を思い出す。走馬灯のように駆ける追憶の儚い徒花は春を待たずして散っていった。


2:本文はあいにくここで途切れている。これ以上は意味をなさない、字に似た何かが書かれているばかりで翻訳不可能だと私は区切りのいいところで物語を最適化した。

ここまではジョン=ミハイローレ(John Mihai Lo Re)の未完短編集、「沈黙のかけら(Frammento di silenzio)」の中でも彼の作風に見合わない柔らかなおとぎ話のようなそれは、彼の死後、つくえに堆く積まれたノートに敷き詰められた小説たち(その形式をなさないものが大半であった)の中から忽然と現れた代物だ。

これまでの作風は彼の代表作、「黄砂の片鱗(Pezzo di sabbia gialla)」に見られるようなハードボイルドな男の生き様を熱量そのままに文章に閉じ込めるという荒業を得意としているというのが、これまでの評論界隈での彼の立ち位置であった。しかし、この短編の公表によって彼の評価は揺らぐことになろう。

私は原文を何度も読み返してみた。しかし、これは彼の作風に違いない。私はジョン=ミハイローレ研究の第一人者、などという経歴とは全く不釣り合いな名誉がそう言っている。彼の著書は幾度となく読み返し、彼の手癖を少しは理解したつもりでいて、翻訳しながらも彼の内在していた柔らかな感性に触れた心地で不慣れなくすぐったさを覚えていた。


「邪魔するぞ」


その癖のある嗄れ声を聞いて、私は慌てて駆け出した。その声の主は険しい目付きで私を見つめてから、靴を脱ぎ、ドタドタと足音を立てながら廊下を歩き私の書斎へ向かっていく。木の軋む音とその瞳にチラつく青白い熱の瞳。ため息は口からあふれ、廊下の空気に溶けた。

葉坂獻一(はざかけんいち)、現在は隠居生活をしながらもこうやって新人に指導をしてくれる翻訳界の権威である。透き通る白髪に少し青みがかる瞳、そしてその声から親しみを込めて「けん爺」と呼ばれるのだ。しかし、初対面の時はその鋭い瞳と声に気圧されてろくに話せもしなかったのだが。

「……ふむ、腕は見込んだだけあるな」

翻訳原稿と原文を交互に見ながら、けん爺はまるで自分の子供の成長を見届けた親のような優しい目をしていた。しかし、原文の途中で思い切り目を見開いて

「珈琲、1杯飲みながら話でもしようじゃないか」

と、突然に話を切り替えてきた。私は1秒ほど反応が遅れ、変に裏返った声ではい!と言い、たらりと垂れる汗とともに台所を目指す。いつも通り少し薄めにブラックコーヒーを作り、書斎へ持っていく。その芳香は私にかけられた緊張という枷を解いてくれたような気がした。

にしてもだ。けん爺が我が家へ来たのは初めての翻訳、(それも奇遇なことに)ジョン=ミハイローレの初期短編集、「人であれない可能性(Probabilità di non essere una persona)」の作業中に今日よろしく突然やってきて、薄いコーヒーを啜り原稿の手直しをして帰っていったというのが、ちょうど10年以上前の今頃だろうか。よく見ればあの頃の面影を残しているどころかあの時で時間が止まっているようにも見える。今、私の記憶が正しいのであれば、彼は70歳の大台に乗ったばかりで、徐々に年齢の衰えが顕著に表れる時期のはずだがそんな雰囲気を感じ取れない。


話題は逸れてしまうのだが、ジョン=ミハイローレの初期短編集の中に、「美しいおばあさん(Bella nonna)」という作品があった。あらすじをかいつまんで説明すると、少女のオードレは祖母のアンナと老人会へ参加することで学園生活という非日常を隔離して放置してしまいたかった。その中で麻莉というアジア系の言うなれば美魔女と出会う。しかし、彼女は60という年齢を一切感じさせず30代のように見えるというまるで奇妙な光景だった。しかし、彼女にはひみつ秘密があり……。という不思議な世界観を描いた作品だった。


そんなことはどうだっていいと笑い飛ばすことが容易にできなかった。強いて例えるならそこに理性を超越する何かが立ちはだかってきて、自分を支配される感覚。まるで麻莉に初めて出会ったオードレのように「まるで森の中で禁忌の獣に出会った」心持ちで書斎へ戻った。ドアを開けば日常は瓦解するやもしれない。ドアノブを強く握り締めていると、その手は書斎の方へ押し込まれていく。突然体勢が崩れるものだからグッと足に力を込めた。上手く力が入り、一難を乗り切ったようで胸を撫で下ろす。


「遅かったじゃないか。」


けん爺は一つ欠伸をして、軽く伸びをしていた。お盆の上のコーヒーを1口啜って、原稿に目をやった。その目は何だか満足げにも、どこか不安げにも感じ取れる。重い腰をあげると、1本のUSBを私に手渡しした。その手の皺が彼の半生を物語っているような気がして私は、背筋を駆けたそいつが虫の知らせなのではないかと感じさせる。これまで関わりが浅かった(そういった機会が少なかったからだろうか)からその実は分からなかった。あの目の底には何が写りこんでいたのかも、一切のことがわからず疑問を植えつけられ彼は帰ったのだが、私はその後数分立ったまま呆然と扉を見つめていた。


その後はっとなってUSBの中身を自分の書斎で確認した時、私はけん爺がここに来た理由がはっきりとわかった。翻訳に関しての評価の中に、「ジョンミハイローレに関する所感」という文章が含まれていることに気がつく。私は彼にジョンミハイローレを訳した作品を毎度贈っていたのだが、それに関して評論を書き貯めていたようで、その中に件のファイルが忽然と置いてあった。



3:私はジョンミハイローレ、彼と1度だけ話す機会があり、2人で古い純喫茶で珈琲を飲み交わしながら語らったことがあったのだ。彼は気さくで、優しい祖父のようだったのを覚えている。私はこれを記録する理由などさしてないものだと考えており、会話としても他愛ない爺さん達の世間話程度でなんの面白みも得られないと思われた。しかし、ジョンミハイローレ研究のパイオニアであり、私の教え子である鶴久マキナの為に筆を執る次第である。


結論から言わせてもらうなら、君の父親、鶴久悠耶はジョンミハイローレの「1人」であった。一体全体なんの事か今すぐに飲み込めとは言わないが、単なる爺さんの推理程度にここからの話を聞いて欲しい。


未完短編集に関してミハイローレは「あれは単なる雑記に過ぎない」と言っていたのだが、原文のクセがそれぞれ絶妙に違う部分が見いだせた。数多くの海外文学を読み込んでいた私も首を傾げるほどのもの(とは言え、ひどく感覚的な機微であり、枚挙しようがない)があり、それをまとめ書評として仕上げられるほどだと考えている。実際彼のその短編に着想を得た作品は多く存在しており、「『沈黙の断片』の声を聞く」という日本作家による同人誌も存在しており、その作家達が関わっていたのではないかと推測している。

君の父親、鶴久悠耶の作品の見当をつけた。それは「美しいおばあさん」という邦題を冠したミハイローレの短編で、私が君に委託した最初の作品だったのを鮮明に記憶しているのだが、その原文を流し読みした翌日に彼と古い酒場で焼酎を流し込みながら談笑したのだ。

その際に彼は言っていた。

「……私は『彼』を眠らせたい」

汗をたらりと垂らしてまるで死神の鎌が首にあてがわれているかのように鬼気迫った表情であり、私は気圧されその間時の流れすら感じられずに生きた心地はしなかった。

私は思わず彼に聞いてみる。

「その彼ってのは誰のことだい?」

一旦沈黙が来て、彼は静かに席を立った。妙に彼らしくないぎこちなさを感じて、呼び止めようとしてみたのだが先程とは様子が違う。例えるならあやつり人形のようにどこか意識が伴わない静謐さを帯びていて、私は息のつまる思いだった。それから彼がどうなったかというのは君の知っての通りであり、鶴久君の死の真相となる。


(ジョンミハイローレに関する所感 より抜粋)


この後もミハイローレに関する推察が書き連ねられているわけなのだが、私は脳の奥底から来る鈍い痛みが少し強まった気がして、一旦パソコンから目を背けることにした。父親の死の真相は事故死と聞いたことしかなく、それで飲み込んで信じていた自分がいたからまさにどんでん返しの下敷きになったように脳内はまっさらな状態になっている。私は冷めたコーヒーを啜り、軽く目を閉じた。父の背中がふと浮かび上がり、涙腺が呼応して緩む。星空のように偉大な存在に抱かれている心地のまま、静かに眠りについた。


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