第3話 名前

顔を上げて歩いていると、自分の見知った顔にはすぐ気付くものだ。

駅までの通勤途中で出会う顔見知りというのは、今のところ一人しかいない。

そいつは俺に気付くと、ててててっという擬音がしそうな感じで駆け寄ってきた。

「こーすけ君、おはよ」

「っ!?」

名前呼びの破壊力の凄まじさに、俺は眩暈がした。

おじさん呼びとのあまりの差に身悶えしてしまいそうにもなる。

「こーすけ君ってば」

「あ、いや、俺のことだよな?」

思い返せば、女性に孝介君などと呼ばれたことがあっただろうか。

記憶に無い幼稚園の頃などを別にすれば、俺をそんな風に呼んだ女性は──

親戚のおばちゃんと従姉妹しか思い浮かばない。

まあ呼び捨てならあったような……。

「もしかして、名前違った?」

「いや、合ってるよ」

「何か怪しいなぁ。もしかして昨日、虚偽った?」

キョドってはいたかも知れないが、キョギってはいない。

「あーキミ、ちょっと身分を証明できるものを出しなさい」

職務質問かよ。

つーか可愛い婦警だなおい。

俺は苦笑しながら、素直に免許証を出す。

少女はそれを素早く奪い取ると、何やら手帳にメモしだした。

「あれ、こーすけ君って、まだ二十代だったんだ」

何気に傷付くことを言われる。

「私とちょうど十二年差かぁ。良かった、下手すりゃダブルスコアかと思ってたし」

二十八の俺と十二年差ってことは、コイツは十六歳か。

で、ダブルスコアだとしたら、俺は三十二歳くらいに見られてたってことで……。

「だいじょぶだいじょぶ! 俯いてなきゃ歳相応だって」

十二歳も年下に慰められる。

いや、その言葉よりも、何でコイツはこんなにニッコニコしてるんだろう。

最初は地味系なんて思ったけど、表情豊かで愛嬌がある。

派手さは無いが、好感が持てる顔つきと言うか……まあその辺のところが、男好きのしそうなタイプってことか。

言葉じゃなくこの表情に、元気付けられるのかも知れない。

「怪しいところは無いようなので返してあげる」

「あ、どうも」

「この情報は、個人情報保護法に基づいて管理されます」

「さいですか」

「そっちからご要望は?」

「は? いや、別に無いけど?」

「むー」

不服そうな顔をされた。

何だか毎日この顔をされている気がする。

「ま、いいか」

このセリフも三日連続ではあるまいか。

「これ、渡しておくから、明日返してね」

「え? これって」

「じゃ、またね!」

そう言って元気に駆け出すと、どうしたのか、すぐに立ち止まって振り返る。

「こーすけ君」

「ん」

「それ、オカズにしたら駄目だからね!」

「するかっ!」

また駆け出す。

今度は元気一杯と言うよりも、まるで照れ臭くて逃げ出すみたいに。

照れるなら言うなよ……。

俺は、アイツから手渡された生徒手帳を見つめながら、たぶんニヤついていた。

生徒手帳の顔写真でも、やっぱりアイツは笑っていて、それを見ているだけで元気が出そうだった。


今日は遅刻せずに出社できた。

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