第3話

 塾の帰り道だった。冬の冷たい雨の中を少年は歩いていた。大きめの傘、ダッフルコート、格子柄のマフラーの下には風邪よけのマスクをつけ、足早に家路を急いでいた。


 中学受験の当日まで一週間を切っていた。頭の中は年表や数式や難しい漢字でいっぱいだった。

 ここ数週間、巷ではインフルエンザが猛威を振るっていた。外出の際は絶対にマスクをつけるようにと指導されていたが、それでも塾の同級生は何人かダウンしていた。

 塾を終え、電車に乗り、最寄駅を出て、自宅へ向かう道の途中、少年は奇妙な既視感に包まれた。誰かに見られているような、妙な感覚だった。

 少年は足は止めず、目だけで周囲を伺った。歩き慣れた住宅街だが、不審者がいないとも限らない。

 だが、周囲に人の気配はなかった。


 気のせいかと思ったその時、少年は沿道の植え込みの陰にうごめくものを見た。

 視線を移した少年はその正体に気づき、ほっと胸を撫で下ろした。


「……なんだ、カエルかぁ」


 二、三年前までは道端にいればすぐに近くに行って眺めたり捕まえたりするほど好きだったカエルがそこにいた。が、最近は見かけても近寄らなくなっていた。

 なぜだかわからないが、あまり近寄りたくなかったのだ。……あと、カエルが好きというのがどうも女の子ウケが良くないということにも気づいてしまっていたのだ。


 少年は素通りしようとも思ったが、違和感を持ち足を止めた。


「あれ、なんでこんな真冬にカエルがいるんだ?」


 寒さに弱いカエルはこの時期は冬眠している。季節外れに暖かい日が続いたりすると、勘違いして出てきてしまうこともあるらしいけれど、ここ数日は雨が続いていて気温も低い。こんなところにいるのは不自然だった。

 気になった少年は踵を返して、カエルがいた植え込みに向かった。


 ツツジの枝が腰の高さに生え揃う植え込みに近づく。

 カエルは怯えたように後ずさりをした。その動き方がどうもカエルらしくなくて、少年はさらに不信感を持った。


 何か、思い出したくないことを思い出そうとしているようで、自分の脳みその片隅に追いやった記憶が顔を出しそうで怖かった。


 少年は傘をさしたまましゃがみこむ。怯えたカエルを覗き見ると、前足が一本、とれていた。


「かわいそうに。猫かなんかにやられたのかな」


 だが、よく見ると肩から下、数センチのところで切り落とされたような断面の傷口だった。これは野生の生き物ではなく、人間の仕業かもしれない、と少年は思った。


 カエルやトカゲは人間と違って痛覚がない、もしくはあっても人間ほどではない、と図鑑で見たことはあったが、そんなことカエルにでもなってみなければ、本当のところはわからない。それに、たとえ痛覚がなかったとしても、悪戯でやっていいことではない。


「人間にやられたのか。……ごめんね」

 少年は傷つけられたカエルを見て、いたたまれない気持ちになった。なぜ人は弱いものに対しては酷いことが平気でできるのだろう。


 カエルには表情がないので、痛みを感じているのかどうかは少年にはわからなかったが、危害を加えた人間に変わって謝罪したかった。そっと手を伸ばしてカエルの背中を撫でた。


「痛かっただろう。ほんと、ごめんね……」

 少年が優しくカエルの背中をさすったその時、カエルの体が、まばゆい光を放った。

「うわっ」

 驚いて少年は手を引いた。

「この光は……」

 少年の脳裏に二年前のあの日のことがふいに思い出された。

 頭の奥が痛くなる。夢だと思い、記憶の海に沈めたあの日の出来事がフラッシュバックしたのだ。

 クラスメイトの少女の傷ついた姿。煌びやかなワンピースや普段と違う髪の色。そんなものが頭によぎった。


「なんだ、今のは……」

 少年はうろたえた。懐かしくも恐ろしい記憶の扉が開いてしまうような気がした。だが、このまま中途半端に開いた記憶の扉をそのままにして、逃げ帰る勇気もなかった。

 恐る恐る、もう一度、カエルの背中に指を伸ばした。

 指が背中に触れた瞬間、カエルの体に光が輝く。頭に過去の記憶が断片的に蘇る。そして、手を離すと光は消える。


「前にもこんなことがあった……。夢だと思ってたけど、あれは夢じゃなかったんだ……」


 あの空き地での出来事は、夢ではなかったんだ。

 カエルの背に触れると、あの光に触れると、あの日の少女とのやりとりが鮮明に思い出された。


「そうか、確かに僕はあの時、カエルになっていた音無さんを人間に戻したんだ……。でも、どうやって? 僕は何をしたんだろう」


 思い出そうとするが、頭に痛みが走る。

 苦痛に顔を歪める少年を目の前のカエルは黙って見上げていた。


「王子……そうだ、王子の能力とか言っていた。王子ってなんだ、王子っぽい物、持っているかな。いや違う持ち物じゃない……」

 頭痛に耐えながら少年は考える、いつの間にか、傘は放り出していた。冬の雨が少年の上着を濡らし、黒髪を濡らしていく。

 もう一度、触れる。今度はカエルを手のひらに乗せてみた。隻腕のカエルの体は光り輝くがそれ以上の反応はない。カエルは嫌がるそぶりも見せるが抵抗は少ない。弱っているのだろうか。

「どうしたらいいんだろう、ねえ君は何か知らないのか?」

 語りかけるようにカエルに顔を近づける。すると、光が少し強くなった。

「ん?もしかして」

 少年は試しに息を吹きかけてみた。光は先ほどよりも強くなった。

「そうか、そうだ! そうだったんだ。思い出した。思い出したよ!」

 思い出せたことへの安堵と、思い出した事実の悲しさを半分ずつ抱え、少年は弱ったカエルに口を寄せた。


 カエルは首を振って嫌がるような仕草を見せたが、少年はおかまいなしにカエルの『への字』の口にキスをした。

 すると、その小さな体がまばゆい光を放ち始めた。


「やっぱり! キスだ。キスでカエルを人間に戻すんだ」


 眩しさに目を細めて、少年はカエルを地面にそっとおく。

 カエルの体が光に包まれて、その形を変えていく。


 そして、あの時と同じように光が収まったときに現れたのは不思議な服を着た少女だった。


 鮮やかな青髪を後頭部で束ね、白地に青い装飾が施されたワンピースを身に纏い、両耳には薄く煌めく虹色のイヤリング。

 少年より少し背の高い肌の白い美しい少女だった。

 よろめき、地面に崩れた少女は、その美しい顔を歪め、厳しい眼差しで少年を睨みつけた。


「ちっ、余計なことしやがって」

 顔に似合わない乱暴な言葉をぶつけられ、少年は面食らった。

「せっかく誰にも知られずに死ねると思ったのによ、こんなところでまさか王子に出会っちまうなんて。最悪だよ」

 少女は舌打ちをした。少年よりも大人びていた。年齢も一つか二つ上だろう。


「あの……もしかして、あなたも魔法少女なんですか。あ、あなたも魔女に負けてカエルにされていたんですか?」

 過去の記憶が本当だったのか確認したくて、少年は前のめりになって尋ねた。

「ちっ。ああそうだよ。負けたよ。無様にな。それでこんななりだよ」

 舌打ちをする少女の体をキラキラと粒子が舞い、青かった彼女の髪が元の色に戻る。少し茶に染めた巻き髪。そして彼女の纏うドレスも霧散するように消え、紺色のセーラー服に変わった。確か近くの中学校の制服だったと少年は記憶していた。


「魔力が無くなりゃ、ただの人か……」


 少女は寂しそうに二の腕から下が無くなった腕をさすった。少年は彼女の無くなった腕を見て我に返った。興奮して舞い上がった自分を恥じた。


「あっ……。け、怪我、大丈夫ですか……?」

「大丈夫なわけねーだろ。ちっくしょー。まさか幹部が出てくるとは思わなかったぜ」

 少女は吐き捨てると残った腕でスカートのポケットを弄り、タバコを取り出した。唇に咥え火をつける。

「ったく、最悪な日だよ。……で、お前はなんなんだ? なぜあたしを人間に戻した?」

 じろりと睨まれて少年はたじろいだ。彼女の腕は見ないようにして、質問に答える。

「前に、同級生の女の子があなたと同じようにカエルになってて、それでこんな風に人間に戻せたことを思い出したんです。それで……もし、戻せるなら人間に戻してあげようって思って」

「余計なお世話だよ。ったく、クソ親父に死に顔見られるハメになるだろうが」

 唾を吐いて悪態をつく少女に、少年は縮こまった。

「す、すみません、でも病院に行けばきっと助かりますよ。思ったより出血も少ないようですし……、あの、いま救急車呼びますから」

 少年が携帯電話を取り出すと、少女が怒鳴った。

「やめろ!」その声にビクッとして手が止まる。

「どうせ死ぬんだ。最後くらい、一人にしてくれよ」

「でも、諦めないでくださいよ、きっと助かりますって」

「諦める? ……ははぁん、お前、なんも知らねえのな。なるほどな」

「……どういうことですか」

「魔女との戦いに敗れるとカエルにされる。お前の言う通りだ。で、カエルにされるときに使用される魔力源はあたし達、魔法少女の魔力だ。で、魔法少女は魔力を使い果たしたら死ぬ。そんで、カエルにされる時には魔力を失う。つまり、カエルにされた時点で、死は確定ってわけさ。放っておいても二日もありゃ残留魔力が切れて死ぬし、そうでなくても野良猫や鳥に喰われたり、車に轢かれることも多い。運良く、お前みたいな能力者に出会って人間の姿に戻れたとしても、魔力が切れることには変わりねえんだ。結局は一日二日で死ぬのさ」


「そんな……」


「ま、あたしなんかは魔力が減ったせいで、痛みとかそういうのには鈍感になってて、じつはこの腕もそんなに痛くない。ちょっとむず痒いくらいだ」

 タバコの煙を吐き出して少女は空を見上げる。

「寒くもねえし、雨に濡れるのもなんか他人事に感じるよ」

「じゃあ、あの時……音無さんが急病で亡くなったっていうのも、魔力が切れたことが原因だったんだ……」

「音無? 音無って、もしかして音無鈴音か?」

 瞳を丸くして、初めて少女は正面から少年を見た。

「知ってるんですか!?」


「ああ、懐かしいな音無鈴音か、あいつをのはあたしだよ」


「やった……? やったってどういうことですか」

「そのまんまの意味だぜ。あたしがあの音無鈴音を倒した。奴は『鋼の魔女』と呼ばれていたからな」



思いがけぬ言葉に少年は耳を疑った。


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