第36話 731部隊

 「僕が大学生だった時に父がミッドウェーで死んだ事は、皆さんもご存じだと思います」

深夜。草木の寝息すら聞こえそうな静けさが辺りを包む中、季太郎はスタッフも皆、帰らせて、仲間達だけになってから、話し出した。

「僕は当然、生活に困りました。 元々裕福な家ではありませんでしたから、大学を中退せねばならぬ所まで困りました。 でも、僕はどうしても学問をしたかった。 要するに金が欲しかったのです。 そんな時に僕の事情を聞いた医学部の教授が、石井陸軍軍医中将を――『731部隊』を紹介して下さいました」

「……」アイリーンは既に顔色が悪い。「……前々から奇妙には思っていたのよ、キタロー。 貴方がいくら天才だとしても、臨床実験もろくにせず、あんな凄まじい発明を幾つも実践投入できるなんて、いくらなんでもおかしいって……」

「そうです、アイリーンさん。 僕は既にあれらに関する無数の臨床実験を経験してきましたし、他の方ののデータも頂いていたのです」

「――人体実験!?」グェンが険しい顔をした。「それはどういう意味だ、キタロー?」

「ナチス・ドイツには『先祖遺産アーネンエルベ』という科学機関があります。 だとしたら、大日本帝国にも同じような機関があっても何も可笑しくはありませんでしょう。 事実、極秘裏にハルビンにあるのですよ」

アイリーンがその瞬間に倒れかけて、クリフが血相を変えて慌てて抱き留める。アイリーンはほとんど失神状態で震えていた。しかし季太郎は微動もうろたえず、あくまでも穏やかな顔のままである。

クリフも、グェンも、ゾッとした。季太郎はこんな――仲間の感情に対して無関心な上に、動物を観察するような目付きをするような青年では無かったはずである。

「――キタロー、君はそこで何をしてきた!?」グェンが問い詰めた。

「マルタ、と言うのは、実験素体モルモットの隠語です」季太郎はゆっくりと仲間に告げた。彼が今まで傷つきやすい好青年の顔の裏に隠しきっていた暗部、最大におぞましく恐ろしい一面を。「捕虜、中国人、ロシア人、赤ん坊から老人まで、男女も老若も一切問わず。 僕達はマルタに生体兵器や毒ガスや、その他諸々の人体に関する様々な実験を行いました。 その引き換えに、大日本帝国での出世や生活を確約して貰ったのです」

ケイが季太郎に掴みかかった。アイリーンがやっと我を取り戻したが、もう季太郎を恐怖と敵意の目でしか見ていなかった。彼女は強制収容所に放り込まれてからアーネンエルベに頭蓋骨を解剖される予定だった所を、辛うじて逃げ出したのだから。

「悪魔!」アイリーンは叫ぶ。「貴方も人間じゃない、悪魔よ!」

その時、奇妙な機械音が鳴った。

「……!?」ミハイルからいきなり通信が来たことに気付いたグェンは、視線で皆を黙らせた。彼の義手から映し出された立体映像のミハイルが、抜刀していたためである。

一同は息を呑む。

『この野郎!』ミハイルが雷鳴のような声で大喝する。『この俺を誰と知っての狼藉か! 今すぐに俺の女を放せ!』

『まあそうカッカするものでないぞ、ミハイルや。 ホホホホ、よもやわたしを忘れた訳でもあるまいに』

奇妙な声が聞こえた。野太い男の声域なのに、変になよなよしい女の口調で喋るのである。

『! ……貴様は、まさか!』ミハイルがハッキリと怯えた顔をした。

『分かったならば這いつくばれ、貴様の女の命は、ホホホホ、この通り妾の手中にあるぞえ』

『……!』ミハイルが日本刀を床に突き刺し、憤怒の形相で正座する。『これで、満足か!』

『ヨシヨシ。 何、一つ妾の問に答えればこの女は無事に解放してやろうぞ。 ――綾長季太郎は今どこで何をしているのだ?』

『……それを聞いて、どうする』

『何、あの研究の続きをさせるだけぞ』

だァ!? ハッキリ言えや!』

『ホホホホ、活きが良いのう。 「不老不死」よ』

次の瞬間、気が狂ったような絶叫。ポイとミハイルの膝元に血まみれの人間の眼球が落ちた。

『あらまああらまあ。 貴方の事情はどうでもよろしくってよ。 ……でも貴方、旦那様に正座させたわね?』

お冬夫人がしずしずとミハイルの側にやって来て、膝元の眼球に青ざめているミハイルを起こし、それから般若もかくやという形相で声の方を振り向いた。

『こ、このメスブタがあ! 殺してやる!』

『あらまああらまあ、変な方。 私、ただ辱めを受ける前に抵抗しただけなのに……』

シクシクと女の武器で泣き出すお冬夫人をミハイルは背後に庇いつつ、冷静に、

『アイツなら、もうアメリカ経由で南米の方へ亡命している頃だろう。 手遅れさ、連れ戻すには』

『……。 ならば戻ってくるまで、貴様らをこの屋敷から一歩も外に出さぬぞえ!』

『そう言われてもなア……。 南米に探しに行った方がまだ確実だぜ』

『抉られたこの右目の復讐じゃ!』

『ヘイヘイ、分かった分かった。 勝手にしろ』

そこでミハイルが通信を切ったので、一同はアッと言った。

「……ミハイルが怯えた顔をした。 つまり、相手は……」アイリーンがぽつりと言う。

「――」

季太郎は何も言わず、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、ドアの方へ向かった。

「どこに、行くつもりだ……?」

グェンがやっとの思いで季太郎の背中に訊ねる。

「決まっているでしょう」季太郎が振り返った。彼の仲間達だった一同は、再び息を呑む。いつも少し恥ずかしそうに微笑んでいた青年が、冷酷で、残忍で、そして狡猾な嘲笑を浮かべていたのである。まるで穏和な善人の仮面が剥がれた魔王のようであった。「今のでよく分かりました。 『神子』も『天皇』も『大日本帝国』ももはや。 。 薄汚い旧人類はマルタに、僕らのような賢い新人類は統治者に。 『人類優生学』を具現させる、たったそれだけの事ですよ」

「あ、貴方、何を言っているか分かっているの!?」アイリーンがわなないた。「それが、どう言う事なのか分かった上で本気で言っているの!?」

「僕はいつだって本気でしたよ、アイリーン」季太郎はクスクスと冷笑した。

「キタロー、馬鹿げたジョークはもう止せ、ちっとも笑えねえ」クリフが鋭い目で季太郎を見据えて、「お前はキタローだ、ショパンやドビュッシーが大好きで、女性とのコミュニケーションが下手くそで、人種差別や偏見なんか最初から忘れていた人間だ。 オレに絶対に諦めるなと言ってくれたじゃないか! ――今は何か理由があって、そんなふざけた道化役を演じているんだろう!?」

フン、と季太郎は淡々として、

「クリフ、貴様もこちらに来るつもりなら、クロンボであっても特別にマルタではなく僕の配下にしてやっても良いぞ」

クリフは有無を言わさずに季太郎に襲いかかった。

「オレはそっちには行かねえ――ここでお前を止めてやる!」

侮蔑の顔で、季太郎はパチリと指を鳴らす。クリフが苦悶の顔で足を押さえてうずくまる。脂汗が滴った。

「誰がその足を造ってやったと思っているんだ、クロンボ。 で、残りはどうする?」

季太郎はそう言って周囲を見渡したが、誰も動かなかった。

「そうか、つくづく下らんマルタ共だな」

そして彼はドアを開けた。

ケイが追いすがろうとしてグェンに止められ、

「季太郎!」

と叫んだ。どうしようもなく涙がこぼれた。

だが季太郎は振り返りもしなかった。溶け込むように、すっと夜の中に消えていった。

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