第34話 僕のこの手は

 それからの日々は多忙を極めた日々であった。治療を求めて、人波が押し寄せてきた。

季太郎は朝の3時に起きて、夜の12時に寝る生活であった。クリフやアイリーン、グェンや他のスタッフが疲れて先に壁にもたれたり床にうずくまって眠っている間も、働いていた。明らかに過労であったのに、季太郎のモヤシのような体は不思議と持ちこたえていた。

「……う、うう。 ん?」ある夜、ケイは目が覚めた。何故目が覚めたのかも分からないのに、自然と目が覚めた。いつものようにスタッフや仲間が壁にもたれて、あるいはうずくまって寝ていた。だがその中に季太郎がいなかった。思わず視線をドアの方に向けると、丁度ドアがガチャリと閉まる音がした。

季太郎!

ケイは反射的に飛び起きて、その後を追った。

季太郎は少しずつ枝を伸ばしていく桜の苗木に水をやっていたが、足音を聞きつけて振り返った。ケイが来たのだと知った瞬間に、その表情に淡い羞恥心と隠し下手な嬉しさが浮かぶ。そうして彼はケイに不器用な背中を向けた。水を汲んでは、苗木にやる。川辺の夜の静かな世界で、水の音と二人の無言が流れていく。ケイはジッと季太郎を見つめていた。季太郎と、季太郎の背後のポトマック川に映る夜空を。ゆっくりと枝を伸ばしゆく桜の苗木を。

「……あの日、この川は死骸で溢れた」彼女は珍しく恨みのない口調で、ただ思い出を振り返るように口にした。「この川に水を求めたみんなが殺到して、そして死んでいった。 その後は魚が随分太っていたよ」

寝ぼけたのだろうか、水鳥が遠くで小さく鳴いた。

「僕を殺したいですか、今上陛下も殺したいですか」

季太郎はゆっくりと振り返った。いつになく、悲痛だが真っ直ぐな顔をしていた。加害者が己の十字架を背負い、それでも前を向いた時にだけできる顔つきである。

ケイの答えは是であった。そう叫びたかった。いつもなら即座にそうだと叫んでいた。なのにケイは激しく首を左右に振った。今や、言葉にならぬもどかしさと言葉に出来ぬむず痒さの、その絡まった糸のような乱れた思いに彼女は全身を絡め取られていた。季太郎への情動と衝動に彼女の殺意が理性のように立ち向かおうとしていたが、いつもなら御せるはずのその『動』が、彼女の意志の支配下からとうとう解き放たれようとしていた。

「貴様はに何を言わせたいんだ!」

これが彼女に出来た、最後の足掻きであった。言った瞬間から彼女の心の中にあった、憎悪で構築されていた堅固な城が、まるで砂のように跡形も無く崩壊していくのを、彼女自身、はっきりと自覚していた。

「……僕は」季太郎はケイを見つめて、妙に生々しいような変にぼやけたような、不思議な声で言った。「貴女に殺されて死にたかった。 でも、悪人として生きます」

「じゃあ殺してやる、今すぐにここで殺してやる!」ケイはついに泣けてきた。「貴様を殺して私も死ぬ!」

その瞬間、季太郎は心底驚き、それからすぐに何よりも嬉しそうに微笑んだ。

この世界で、この言葉以上に素直で、意地悪で、悲しくて、純情に、ただ愛していると真夜中のどん底から叫んだものがあっただろうか。

「……僕が、ただ原爆を作っただけだったら、きっと、ね、ここで一緒に死ねました」

季太郎はそう言って、ケイの両手を握った。

「でも僕は、貴方が想像しているよりも圧倒的になのです」

若くて青くて、痛ましいくらいに恋しているからこそ、二人の恋情は重ならない。

「何で、何を、貴様は、」ケイが泣きじゃくりながら言うと、

「もうすぐ分かります……もうすぐに」

季太郎は手を放した。それから、己の手をしばし見つめていた。

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