第33話 お安いご用だ

 「おなかすいた、パパ、サイモン、おなかすいた! ママ、ママのホットケーキたべたい! ママー!」

この言葉を聞いた途端に母親は泣き崩れそうになるのを親の矜恃で耐えた。ベッドの中で死にゆくだけであった我が子が、一週間でここまで――ベッドの中でピョンピョンと跳ね回るくらいに快復したのだ。彼女は子供を優しく抱きしめて言った、

「ええ、家に帰ったらうんと焼くから、それまで良い子にしていなさい」

その後で、母親は季太郎に抱きついてありがとうと何度も涙声で言った。どうしても性質的にハグに慣れぬ季太郎は顔を青くしたり赤くしたり白くしたりして硬直していた。アイリーンがそっと母親に清潔なハンカチを渡すと、彼女はアイリーンにも抱きついて何度も親愛のキスをした。まだ固まっている季太郎を軽くクリフが蹴ると、ハッとして我に返る。

「ったくキタロー、君はどうしてハグやキスがそこまで苦手なんだ」グェンが呆れる。

「ぼ、僕は、どうしても異性との身体的なコミュニケーションが、不得手でして、」

「キタロー、お前を今蹴った感触、まるで石みたいだったぞ」クリフが両手を上げた。「『性的』じゃないのに、お前は何をやっているんだ」

「せ、性的……」季太郎、ついに爆発せんばかりに赤面する。

「ヘヘ、ジュディ、早く帰ろうな!」と姪っ子を肩車したサイモンが施設から先に出ていくと、どよめきが外から聞こえた。おい、死にかけていたあの女の子じゃないか。ここに来る前は荷車に乗せられてきたのに。まさか本当に人体実験の研究所じゃないのか。どうなんだ、どうなんだ。

「キタロー、何と礼を言ったら良いのか分からない。 まさか本当に一週間で歩けるようになるなんて……。 本当に治療費は――」

老母の肩をしっかり抱きながら、アンソニーは目を赤くして言った。季太郎は微笑んで、

「不要です。 ただ、ここは断じて人体実験の研究所ではないと広めていただきたくて……」

「お安いご用だ! 自慢してやるとも! ……何度もありがとう、キタロー」

ギュッと季太郎の手を強く握ると、アンソニーは老母を支えつつ、弟の後を追った。

彼は結局、弟以外には、家族にすら信じて貰えなかった。彼が一度両手両足を無くして、狂気の淵を彷徨っていた事を。だって肌の色も毛穴も重みも感覚も何もかもが全く違和感のない、義手義足なのだから。愛娘を抱き上げた時の重さと妻を抱きしめた時の温もりの両方がはっきりと分かるのだ。もっとも季太郎が言うには、流石に死んだ後に体を焼けば判明するらしいが、彼の一家はクリスチャンで土葬であった。

『流石にまた軍隊に入って戦うには強度が足りませんが、普通に暮らしていくなら先に寿命の方に限度が来るでしょう』

『ああ、礼など要らないのです。 何せ貴方相手に麻酔薬や鎮痛剤が効かないかの実験も行いましたので、そちらを忘れていただけるなら、むしろ感謝するのは僕の方です』

『フム、娘さんは原爆の時に火傷を負ってまだ痕があるのですね。 ついでに皮膚移植で治しましょう。 貴方のおかげで安全な麻酔薬が完成しましたから、幼児相手でも麻酔による事故はほぼ起きないでしょう』

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