第20話 ミハイルと、お冬夫人

 素手のクリフと木刀を正眼に構えたミハイルが板敷きの道場で対峙している。

「おいアイリーン、どっちに賭ける?」グェンはニヤッと笑って隣を見た。

「クリフ。 グェンもでしょ」

「じゃあキタローはどっちだ?」

「僕は……こう言う賭けには強くなくて……」と道場の隅っこで平伏している季太郎は弱々しく言った。彼にしてみれば、ミハイルを賭けの対象にする、ということがもう死刑に相当する不敬罪なのである。

「あら意外ね! じゃあミハイルにしなさいよ。 負けたら今日のお茶当番は貴方ね」

「ハ、ハイ」

三人が見つめる前でクリフとミハイルの殺気が膨張していく。季太郎は目を見張っていた。

殺気が破裂した。音も無くミハイルが突如動く。神速の正確無比な突きがクリフに迫る。季太郎が相手だったら十数メートルは吹っ飛んで気絶し骨を何本か折っていた。しかし、クリフの反射能力は、季太郎よりも、ミこのハイルよりも、凄まじかった。何が起きたのか季太郎が理解するのに数秒もかかった。――ダン!と地響きを立ててミハイルの巨躯が前のめりに床に叩きつけられる。ワアッとグェン達が歓声を上げた。

「痛えぞ、この野郎!」とミハイルが起き上がって怒鳴った。「手加減しろや!」

「これだ!」クリフは膝を突いて派手にガッツポーズを取りながら雄叫びを上げる。「これがオレだッ!」

「ヒイ、何が起きたのですか――?」季太郎が死にそうな声で言う。

「クリフの野郎が俺の突きをかわして、俺の首を蹴り落としやがったんだ」

「ギャア!」悲鳴と共に季太郎は目を白黒させた。

「おいクリフ! 俺じゃあなかったら首の骨が折れていたぞ!」

「アハハハハ、ミハイルだから手加減無しだったんだぜ! しかしキタロー、この足凄え……うん?」

季太郎、白目を剥いてカニのごとく泡を吹いていた。

「……オイ、誰かコイツをどうにかしろや」ミハイルが呆れた様子で言う。「特高の拷問には耐えきった癖に、何で俺が倒れたぐらいで気絶するんだ」

「何でだろうな?」クリフも首を傾げた。

 そこに、「旦那様、お茶を持って参りましたよ」と典雅に冬子夫人が登場する。

「お冬、流石気が利くなあ」とミハイルはご機嫌になって湯飲みを受け取った。

アイリーンがすかさずその後で夫人から湯飲みと急須の載ったお盆を受け取る。

「もう、旦那様ったら」冬子夫人は恥じらいの表情を浮かべて、道場を出て行く。

それを見送って、茶を飲みつつ、

「お冬様は前から美人だったが、この頃は怖いくらいに何か、こう……」とグェンが恐る恐る呟いた。

グェンらにとって、正直、ミハイルよりも怖いのは彼女を怒らせた時なのである。『ロロ』という彼らの仲間が、夫人の恐ろしさを知らずに、むしろ女だからと侮り、ミハイルを財産目当てで殺そうとした事があった。その時には大英帝国の海軍にいたクリフですら、夫人を止める事すらとても考えられず、腰を抜かして這いつくばりながら逃げ惑ったのだ。

「そうよね……ただでさえ魔性の女だったところに、ホープ・ダイヤも真っ青なくらいに磨きがかかったって感じよね」とそれにアイリーンも同意した。

「あー、その感じは分かるぜ」クリフもお茶会のために座ってから怖々と頷く。「もの凄く綺麗なバラがついに咲いた、ハリネズミよりも棘まみれで、ってな」

……そこで三人は示し合わせたように、一種の確信を持ってミハイルを見つめた。

「まさか……」とアイリーンが口を両手で覆う。

「魔性どころじゃねえぞ、季太郎にムチャクチャ言いつけて精力剤作らせて、それでやっと毎夜毎夜だ」

ミハイルはそう吐き出すと、渋い顔で煙管をやり始める。

「「ヒッ」」クリフとグェンが青ざめ、同時に小さな悲鳴を上げた。ミハイルは同じ男からも充分に絶倫だと言いきれる男であったのだ。そして唯一、夫人を止められる人物でもあった。

「俺は根こそぎ吸い取られて早死にするかもしれん……」ミハイルは嘆く。

「あああ、今までがよく我慢できたわね、ミハイル」アイリーンが心底同情しつつ言った。

「我慢せにゃ俺の眼ン玉が抉られていたさ。 だが今の方が実際、破れかぶれだぜ。 お冬よ、頼むから一日でも早く孕んでくれ……もう干からびちまうよ。 そうだ! 季太郎、オイ、季太郎、起きろ!」

「ハイイイイ!」と季太郎がミハイルの一声で失神から目覚めたので三人は呆れた。どうも季太郎はミハイルの声で動くロボットにそっくりである。「何ごとでしょうか、宮様!」

「妊娠薬ってのは作れねえのか!?」

「御上意とあらば何であろうと作成するであります! ……ハ、妊娠薬?」

季太郎、口で言ってから己の正気を疑う。妊娠する薬?させる薬?いやいやいやいや聞き間違いであろうと。

「そうだ。 お冬を一発で孕ませる薬を作れ、いいな!?」

カッと顔がリンゴのように赤くなって、「しょ、承知いたしました……」


 「み、宮様、で、出来ました」と季太郎は赤面を通り越し、鼻血すら出しつつ振り返る。

ああ、これで。ミハイルの安堵たるや相当なものだった。

「た、ただ、副作用がございまして、何ぶん急ごしらえですので」

「何だ? 副作用だア?」

「は、はい、そ、その」季太郎は俯いてしまう。羞恥心が溜まって爆発しそうだ。耳まで赤い。「飲用した女性が、その、あの、ええと……」と口ごもって中々言わない。

「まどろっこしいな、ちゃっちゃと言えや!」ついにミハイル、一喝。

「数十時間ほど淫乱に走るのであります!」と季太郎は耳を塞いで絶叫し後はもう何も喋らない。どうしようもなくブルブルと震えている。

「……」ミハイルは燃え尽きた灰のようだ。

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