第12話 化物のような天才
季太郎は一週間も目を覚まさなかった。
「……」ケイはカツラを取って手鏡を見る。ごっそりと束になって抜け落ちた髪の毛が、我先に生え始めていた。末期の白血病で血ばかり吐いて何も食べられなかったのも、夜中に麻薬無しでは眠れぬほど苦しんだあの地獄も、たった一週間で嘘のようだ。
「アイリーン。 これを見てくれ」と仲間を呼ぶ。背中合わせに手鏡に向かって口紅を塗っていた金髪の欧米の女が面倒そうに振り返った途端に、青い目を丸く見開いた。
「嘘……! ああ、ケイ、良かったわね、本当に良かったわ!」
「でも腹が減った」
女はニヤッと笑ってクルッと手鏡へと向かい、素早く口紅を塗りおえる。
「もう。 ケイは一週間前までほとんど点滴で生きていたのよ? すぐにパンケーキを焼いてあげる、それともご飯? あ、分かったわ、一番欲しいのはキタローのキスね!」
「……あの戦犯は、頭がおかしい! キスなんか要らない!」
「顔を赤くして言っても何にも説得力がないわよー」
「……………………………………。 僕はアイツが大嫌いだ」
「はいはい、パンケーキで良いわね。 ちょっとお冬様にお願いして、とびっきりの小麦粉を頂こうっと!」
「……………………………………」ケイは腕組みをして黙っている。
「あら、呼びました?」静かに障子を開けて、お冬夫人が登場する。
「まあ、お冬様、丁度良いところへ。 ケイがお腹を空かせてしまって。 お砂糖とミルクと小麦粉を頂きたいのです」
「あらまああらまあ。 パンケーキ、お幾つ食べたいの?」
「……三つ」
「うふふふ、その様子だとお代わりや紅茶も欲しそうね。 アイリーン、手伝って下さいな」
「勿論ですよ!」
パンケーキと紅茶を載せた円卓を囲んで、彼女達はのんびりと話をする。
「季太郎は馬鹿だ」と前を見ようとせずにケイは呟いた。
「馬鹿だから好きになったんでしょ」アイリーンが突っ込む。「あそこまでの馬鹿だったから」
「………………………………………………………………………………」
「けれどどうして彼はケイちゃんが女の子だと分かったのかしら?」奥方が不思議そうに、「天才だからかしら?」
「………………………………知らない。 男だと思っているのかも知れない。 ただの変態だ」
「ただの変態がケイちゃんを命がけで助けようと三日間も頑張る訳が無いでしょう?」
「……………………………………死ねばいい」
「やんでれ」とアイリーンが断言した。「キタローが変態なら、ケイ、貴女はやんでれよ」
「うるさい!」
「美味そうな匂いがする」とそこに黒人の男が義足からスリッパを脱がしつつ入ってきた。「それと、ケイ。 キタローが起きたぜ!」
「死ねばいい!」
「ただのやんでれかよ」と黒人の男も言った。「ほら行った行った!」
「僕は行かない!」
そこで、おい!と遠くからミハイルの声がした。奥方が優艶に微笑んでケイの襟首を掴み、抵抗も空しく引きずって行った。それを生ぬるい眼差しで見送ってから、
「オレにも紅茶をくれよ」と黒人の男は美味そうなパンケーキに物欲しそうな視線をやった。
「だったらカップを持ってきなさいよ。 どうせグェンも来るんでしょう、その分も」
「チッ」と舌打ちして黒人の男はカップを取りに行った。
ミハイルが季太郎に重湯を食べさせていると奥方が嫌がるケイを引きずって登場する。
「お冬、いつも助かっている、礼を言うぜ」
「嫌ですわ、もう。 私は旦那様の妻ですのよ」少し恥ずかしそうに奥方は言い、ケイを女とは思えぬ力でグイとばかりに引っ張って前に突き出した。季太郎が重湯を気管支に入れて派手に咳き込んだ。
「ほら、話がしたかったんだろ。 二人きりにするから、ゆっくり話せよ」
「そ、そんな破廉恥なこと!」季太郎が慌てたが、もう遅い。
ケイと季太郎は、二人きりになった。
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