第6話 土下座癖
「……呼吸は回復したが意識が戻らんか。 これは一生寝たきりかも知れんな」
「待って下さい、脳波に変化が。 意識レベルの変動を確認。 起きたようですよ」
「ホオ。 おい、季太郎。 起きろ!」
――名前を呼ばれてはっと目が覚めた。だが衰弱しきった体は全く動かなかった。渾身の力でまぶたを開けると、白いものが目に入った。白衣を着た人間達であった。眼鏡が無いので、顔まで判別は付かない。ただ、声で、一組の男女が近くにいるのは分かった。
「――なるほどなア、あの多聞丸が助けてやってくれとこの俺に懇願しに来たのも納得だ」
「あらまあ、早速にお気に入りのようで……」
「今更嫉妬かよ。 俺がこう言う若者を贔屓にするのは昔からだろうが」
「ですけれど……もう!」
「ヘエヘエ。 おい季太郎。 聞こえるか。 俺は多聞丸に頼まれてお前を助けた。 お互いのためにもう二度と会うことは出来んだろうが、伝言がある。 『何があっても、何をされても、どうかあの義務を忘れんでくれ』」
「……」涙がにじんだ。彼がほとんど自業自得で陥った奈落に、必死に手を差し伸べようとしてくれた人がいたのだ。二度と会えなくても言葉を交わせなくても、その存在が痛めつけられて弱り切った彼の魂をどれほどに救ってくれたことか。ありがとうございます、閣下。ありがとうございます。だが彼がそう思った瞬間、ふっと糸が切れるように季太郎の意識はまた薄れていった。
次に目が覚めたのは、ひどい空腹感のためだった。かなりの間、寝たきりだったのだろう、体はどうしようもなく弱っていたが、拷問による怪我の痛みはもう無かった。見れば、無理矢理に剥がされた爪の痕から新たな爪が生えようとしていた。ゆっくりと起き上がる。広く簡素な和室の片隅、分厚い布団の上に彼はいた。枕元には見慣れた黒縁眼鏡があった。おそるおそる手に取ってかけてみると、ぴったりと度数が合っていた。世界が鮮明になった。
それで季太郎は障子に映る一つの影に気付いた。人影のようだ。かすかに煙草の香りがする。
「あのう」と季太郎は這うようにしながら、障子に近付いて、喉から絞り出すようにして声を掛けた。今は衰弱のあまりにこうして喋るのもやっとだった。
「起きたかい」といぶし銀のように渋みがあって、よく響く声が返ってきた。
「はい、おかげ様で」季太郎はそれでも何とか障子を開けて顔を出した。
最初は白髪なのだと思ったが、男の顔つきが日本人離れしていた上に、真っ青な
「あ……」と季太郎は目をぱちぱちとさせた。西洋人にしか見えぬ男の居住まいにどことない高貴さを感じたためと、日本の文化がぴんと男の体の中に筋を通しているような、そんな不思議な印象を受けたためである。
「俺は日露の混血さ」その季太郎に男は見事な象眼細工の施されたたばこ盆を引き寄せて、ゆったりとくつろぎつつ説明した。男の齢は季太郎よりも少し上か同じくらいだろうか。だが季太郎とは比較にならぬほどの風格、威勢がある。まるでかつての欧州の国の玉座か帝位にどっかりと腰掛け、居並ぶ廷臣達を威圧しながら見渡していそうだった。「親父の顔は知らんが、どうもこの国のやんごとないご身分の男だったらしい。 亡命したロマノフの皇女だったお袋は俺を産んですぐに死んだが、俺にこの体と莫大な財産を残してくれた。 いずれ日独でソ連の領土分割が完全に終わったら、俺は日本のロシア帝国傀儡政権の皇帝に据えられるんだとさ。 それまでは自由の身、と言う訳だ。 多少の狼藉を働こうがお茶目をしようが見逃されるし、この屋敷の中は治外法権だ。 多聞丸もその辺を知っていたから、季太郎を匿ってやってくれと懇願した訳だよ」
「でも僕は絞首刑に処されたはずです、どうして生きているのでしょうか」
「ちいっと金薬の匂いを執行人達に嗅がせて、首つりの縄に細工をさせてもらったのさ。 人間の体重が一気にかかったら切れちまうように。 ……だが若いのが想像以上にヒョロっちかった所為でしばらくぶら下がる羽目になってな。 やっと縄が切れた時には俺も手遅れかと思ったぜ。 もっとも、そのおかげで若いのは本当に死んだと見做されて、もうこの国には存在しねえことになっている」
「そう、でしたか」
季太郎は一通りは納得した。すると、
「いい加減に腹減っただろ。 最初は重湯から食うんだぞ。 今、肉とか食ったらお前死ぬからな」
そう言って男は、おい!と向こうを振り返って呼んだ。そうすると縁側を曲がって、女神ですら愕然とするような、牡丹模様の和服姿も艶やかな美女がしずしずと風にそよぐ花のように歩いてきて、すっと正座し、
「旦那様。 何用でしょうか」
「重湯を薄めたのからだ、少しずつ食わせてやってくれ」
「はい、承知いたしましたよ」
と、また花のように楚々と去って行った。特に香をまとっていた訳でも無いのに、季太郎は確かにもうすぐ満開を迎えんとする淡い色合いの花の香りをどこかで感じていた。
「……」
あんな美女は初めて見た、季太郎もその残り香の中愕然としていたが、
「おい、ありゃ俺の嫁だぞ」と言われて我に返った。
「ア、ハッ、すみません、失礼いたしました!」
恩人の妻女に対して何と僕は無礼なことを、と季太郎が心底から己を恥じたときである。
「ちなみにあれの特技は男の目ン玉を抉ることだからな」
「ヒッ!」冗談、何と悪い冗談、想像しただけで季太郎は肌が粟立った。
「冗談じゃねえぞ。 俺も初夜でやられかけて殺されると思ったんだ」
「よ、よくぞご無事で」
「全くだ。 俺は女房に人食い虎を貰っちまったと思ったさ」
そこで、そろそろ布団へ戻れ、と男は言った。
「風邪でもこじらせて肺炎になっても今のお前は死ぬからな」
「は、はい」と季太郎はまた這いつくばるように布団に戻りだしたが、途中でガクンと手から力が抜けてしまった。衰弱が過ぎて余力が無かったのである。
「おいおい、しっかりしろや」男がその季太郎を支え起こして、布団まで戻してくれた。
「ありがとうございます、ええと……」
季太郎は心から礼を述べようとして、男の名前を何一つ知らないことを思い出した。
「俺は多聞丸からは『露ノ宮』と呼ばれている。 本当は『
「!」季太郎の背筋がいきなり伸びた。名字がない一族、それは言わずと知れた――!「ヒアッ、数々のご無礼をどうかご寛恕下さいッ!」
季太郎、必死に布団から這い出て、縁側までたどり着き、そこから庭へ落下するように落りて土下座する。
「おい、おい、お前何をやっているんだ」
男は追いかけてきて縁側に立った。季太郎の額が庭の土にめり込もうとしていた。
「知らずとは言え大変な非礼を! 何たる侮辱を僕は! アア、殺されても文句はもうしません!」
「何の騒ぎですの?」とそこに薄めた重湯の入った器と銀の匙を盆に載せた先程の令夫人が戻ってきた。彼女に向けても季太郎はガンガンと頭を叩きつけるように地べたに打ち付け、
「申し訳ありません、申し訳ありません、アア、僕は何と言う冒涜を! もう父に顔向け出来ない!」
「……。 旦那様、一体何がどうしましたの?」
「俺が名乗ったらいきなりこうだ。 おい若いの、そのくらいにしろ、いいから布団に戻れや」
「滅相もございません、僕ごとき土の上にいるのもおこがましい!」
「あらまああらまあ。 でも貴方、今は興奮していますけれども、そろそろ体力が限界よ」
案の定、令夫人が言った事は的中した。ガクガクと季太郎の体が意志に反して痙攣を起こし始めたのだ。アッ、と小さく声を漏らし、季太郎は土下座したまま気絶した。
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