第4話 季太郎、売られる

 そう言えば、と傘を並べて染み込むように寒いにわか雨の中を歩きつつ、穣司は季太郎と出会ってからを振り返って考えていた。

この男がいなければ『大日本帝国宇宙進出計画』に携わることになっていたのは間違いなく俺だった。学術士官として選ばれていたのも、俺だった。

何もかもが、俺だった!

思い返せば、本来受けるべき全ての利益や立場をこの男に奪われていたのだ、俺は。

……そうだ、と彼は結論づける。

こんな天涯孤独で冴えない風貌の眼鏡面、敗戦国の文化かぶれの阿呆よりも、大日本帝国を進展させるには、絶対に俺が相応しい。

「しまった、キタ」彼は少し慌てた様子で言った。「俺としたことが、研究所に締め切りの近い書類を忘れていたよ。 今から取りに行かなきゃ間に合わないんだが、生憎鍵を持っていない」

「それは一大事だ。 僕のを貸すよ、大体の片付けは終わっているし、明日の昼までに返してくれれば良いから」

「助かったよ」と穣司は季太郎から鍵を借りると、あっという間に小雨の中を走って行った。穣司は研究所の季太郎の一室にある、小さな金庫の暗証番号を知っていた。季太郎が酔った際に、気の置けぬ彼への軽い冗談として言ったのである。


 ぐっと冷え込む翌朝、いつものように季太郎は父親の遺影に向かって手を合わせていたが、不意に玄関の戸がすさまじい勢いで叩かれたので、走って玄関へと向かった。

「はい、どちら様でしょうか」

「特別高等警察である!」季太郎はエッと目を丸くした。「開けんか!」

何かの間違いだろうと思って季太郎はそのまま戸を開けた。途端になだれ込んできた警察官達に彼はねじ伏せられて、ついでに何度か殴打されて眼鏡が飛んだ。

「あっ! 何をされるんです!」

「貴様には国家反逆罪の疑いがある! 来い!」

「そんな、何かの間違いでしょう!」鼻血を垂らしつつ、彼は必死に訴えた。

「じゃあこの日記は何だ!」

その眼前に研究所に置いていた金庫の天井に、貼り付けて隠してあったはずの彼の手帳が突きつけられた。

――Y氏に怒鳴られてしまった。『神子』様について僕が失礼な発言をしてしまった所為だ――

季太郎は青ざめた。隠してあったつもりの手帳が暴露されたこと、それの内容に迂闊にも赤裸々な日常を書き連ねていた己の愚かしさ、そして何より彼に本当に良くしてくれたY氏にこの累が及ぶかも知れぬ可能性……に震え上がったのだ。

「おい、このY氏とは誰だ」

「……」季太郎は答えられなかった。答えねば特高のすさまじい拷問に晒される。だが答えれば、彼は死んでも死にきれぬほどの後悔を一生背負うのだ。Y氏は本当に彼に良くして下さった。彼はそれで黙っていた。その胸部に拳がめり込んだ。げほ、げほと咳き込む彼はそのまま引きずられるように連行されていった。

早朝の大騒動に近所の人間が野次馬をやっている。季太郎はその中に穣司がいたことを知らない。

「キタ、お前が全部悪いんだ……!」

彼は興奮のあまり青ざめた顔で、誰にも聞こえぬようにそう言った。

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