第3話 梅枝穣司はキタを、

 連合国はアメリカ合衆国が無条件降伏した事で完全敗北、それ以前からソ連は独逸と日本で領土分割の国境線を巡っての長いこと折衝中である。既にアジア諸国は大日本帝国の領土となっているから、今度は米国領土の分割を巡って独逸とまた外交戦が展開されることになるだろう。イタリアは独逸の衛星国となり、傀儡政権が支配している。今の国名は真ローマ帝国。


 退役した綾長季太郎はその才覚や経験を買われて『大日本帝国宇宙進出計画』に携わることになったため、研究所の移籍の仕度に追われていた。滅多にない、異例の大出世である。

「ようキタ、今、時間はあるか」と梅枝穣司ウメガエジョウジが季太郎の研究室にひょいと顔を出した。

彼は季太郎の親友で、名家のお坊ちゃまであった。

父は警察庁の長官で、母親は華族出身である。

本来ならばエヘンエヘンと親の威光を傘に威張り散らしても何らおかしくはないのだが、天涯孤独の季太郎をキタと呼び、一緒に遊ぶぞとしょっちゅう誘いに来るのであった。

大人しい季太郎は派手好きの穣司に連れられてあちこち出かけたが、最近の二人のお気に入りは美しい女給がいる街角の喫茶店であった。

穣司は心からこの美しい女給がお気に入りで、季太郎はその喫茶店のレコードで流れる欧米のクラシック音楽が大好きであった。

独逸が贔屓するワーグナーよりも彼はショパンやモーツァルト、ドビュッシー等を愛していた。

「日本の雅楽は確かに由緒正しく、何よりも素晴らしい。 でも、僕はどうしてもショパンの旋律の一途さに心打たれてしまうんだ」

紅茶を頼み、穣司が女給と会話しようと隙をうかがっている時に、ぽつりと彼は言った。

「武力で侵略するよりも恐ろしいのは文化が侵略することだと、思う」

「ん? キタはまさかあの負け犬共の文化とやらが好きなのかい?」

「そうかも知れない。 自分でも分からないんだ。 どうか馬鹿げていると笑ってくれ」

「ハハハハ、キタは生真面目だからな。 俺のように気楽に青春を謳歌したまえよ、キタ」

「はは、僕は基本的に金なしだからね、中々それは難しいのさ」

「じゃあ今日は俺の奢りにしよう。 その代わりにキタもあの子と俺が近付くのを手伝ってくれたまえ」と穣司は視線でとびきりに美しい女給を指した。季太郎は承知と笑って、

「そう言うのは、変に斜に構えないで真っ直ぐ行った方が良いに違いない。 僭越ながら僕が縁結びの神の真似事をしようじゃないか」

「上手くやれよ」

「勿論だとも。 でも少し待ってくれ。 女性と話す前に紅茶で喉を整えたい」

「何だい、キタは。 乗りかかった船の勢いが大事なんだぞ」

「まあ、そう言わずに一口。 ……よし、頃合いだ」

すみません、と季太郎は通りがかった美しい女給を呼んだ。

「はい、いかがされました」

「店主に次は『誰も寝てはならぬ』をかけてほしいと伝えて下さい」

「誰も寝てはならぬ……? 承知しました」

首を傾げながら行ってしまう女給にすがり付くような視線を向けていた穣司であったが、彼女に声が聞こえなくなると、

「おいキタ! こいつは一体何の暗号だ! てっきり俺は君が仲介役をやってくれるものだと!」

と声を潜めて不満をぶつけだした。

「これが僕のできる最大の縁結びさ」ところが季太郎はしめたとばかりに微笑んで、「良いかい、曲が流れ出したら、僕は彼女へ紅茶をまた一杯くれと招く。 その時君は僕に向かってこう語るんだ。 君、この歌曲をこの頃やたらに好いているが歌詞は知っているのかい?」

「うん?」

「僕はいいや、ちっとも知らないと答える。 そうしたら君は説明してくれるのさ。 この歌詞は勇壮な愛の告白の歌。 ……誰も寝てはならぬ、姫君よ、あなたでさえも冷たい寝室で、愛と希望に打ち震える星々を見るのだ……夜よ去れ、星々よ沈め、夜明けと共に私は勝つ、私は勝つ……そうやって氷の姫君の心すら溶かす情熱の歌なんだよ、と」

「ほう」

俄然、穣司は身を乗り出した。

「僕は心底君の博学にハハアと感服する。 否が応でも彼女も君に興味を持つ。 こうなれば君次第さ」

「ようし。 歌の通りに氷の姫君の心を俺が溶かしてやろう」

「それじゃあ呼び止めるよ」

誰も寝てはならぬが鳴りだした頃合いを見計らって、季太郎はもう一度美しい女給を呼び止めた。

「すみません、紅茶をもう一杯頼みます」

「はい、承知です」と女給がやって来た。

穣司は自然なふりを装って、

「そういや君、この頃この歌曲ばかりやたらと贔屓にしているが、歌詞は知っているのかい?」

打ち合わせ通りに、季太郎は、

「ア、そう言えば、ちっとも……どんな歌詞なんだい?」

「勇壮な愛の告白さ。 ……誰も寝てはならぬ、姫君よ、あなたでさえも冷たい寝室で、愛と希望に打ち震える星々を見るのだ……夜よ去れ、星々よ沈め、夜明けと共に私は勝つ、私は勝つ……そうやって氷の姫君の心すら溶かす情熱の歌詞なのさ」

「……穣司、君、流石だねえ!」

「まあ」

と女給は驚いた後に悟ったらしく、紅茶を注ぐのもそこそこに顔を赤らめて行ってしまった。

「おい、行ってしまったよ」と今度は季太郎が呆れた顔で穣司に突っかかった。「これじゃあ精一杯の縁結びの神の真似事が――」

「最初はこれで良いのさ。 こうやってしっかり俺の顔を覚えさせる。 それが肝要だ」

「そうかい、全く」

 季太郎が先に喫茶店を出て、穣司が支払いをしている時の事だった。

丁度、にわか雨が降り出した。しまったな、と穣司は思って、喫茶店で傘を借りようと頼んだ。

すると、

「あ、あのう」まだ顔に赤みを残したままの女給が傘を二つ、手に出てきて、「あの方のお名前は、何とおっしゃるのでしょうか」

穣司は形相を変えるのを生まれ持った高慢さで辛うじて耐えた。そして少し破顔し、

「季太郎と言うのですよ」

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