第2話 山口多聞は学者君が好きである 下

 本日を以て、大日本帝国海軍旗艦キカン、戦艦長門はその任を戦艦大和にユズり、東京湾にて第二次世界大戦の大日本帝国勝利の記念艦として鎮座チンザすることになる。

その記念式典が正午より行われる予定であった。

二人はその長門の艦上に朝早くからいた。一人は学術士官としてこの長門に半年の間乗艦していた青年で、名前を綾長アヤナガ季太郎キタロウと言う。

階級は准尉である。この式典の日が彼の短い軍人生活の最期の日であった。

今日をモッて、長門のように彼も退役し、出身の大学の研究所に戻るのである。

もう一人は山口多聞、沖縄県の湾上で、この長門の上にてり行われたアメリカ合衆国と大日本帝国の終戦条約の調印に立ち会った大日本帝国の高官の一人である。

階級は、海軍中将。

部下に対してとんでもなく厳格な事で鬼よりも恐れられていた山口多聞であったが、何故かこの青年のことだけは相当に気に入って、学者君、学者君とよく呼びつけては話をしていた。

学者君は穏やかで人の好い気質であったが、知識量と思考の鋭さだけは一流で、この『キチガイ多聞』『人殺し多聞』とすさまじい異名を付けられて歴戦錬磨の軍人を何百人と震え上がらせた山口多聞が、ううむ……と舌を巻くことがしばしばあった。

会話の中でまるで未来が見えるかのような推論をし、しかもそれが『恐ろしい』くらいの確実性で実現する。

戦艦長門の最期の航行の間に、山口多聞は、彼の推論をついつい聞かずには居られなくなってしまうくらいには、彼の発言を信じるようになっていた。

「次の大日本帝国の敵は誰だと思うね、学者君?」

「僕の推論では――独逸ドイツ第三帝国でありましょう」との答えが返ってきた時、山口多聞は耳を疑った。

ナチス・ドイツが未来の大日本帝国の敵になる事についての驚きではない。

それくらいは彼にも予測できている。

問題なのは、この青年の口から『まずは』の言葉が出て来たことである。

「まずは……その次は何だと言うのだね?」

阿弗利加アフリカや南米や印度インド、今まで欧州列強の支配下にあった植民地であります」

「あらかたドイツの支配下に入った所の土民が反抗する……と言うのかね?」

「はい。 独逸第三帝国では反ユダヤ政策・反共産主義政策を徹底しております。 反共主義はまだ僕にも理解が及ぶであります。 しかし反ユダヤ政策はその実態、ゲルマン人とあのチョビ髭のお気に入り以外の人間を絶滅させんとするもの。 対して我らが大日本帝国の臣民の多くは独逸に言わせれば『黄色い猿』であり、古来より『和の国』であるため、独逸に比べれば圧倒的に人種や宗教、文化の差違等に寛容であります。 故に、長続きしますでしょう。 されどタガを締めすぎたものは、限度を超えた瞬間、一気に――」

「ふむ」

と山口多聞は恐怖を飲み込んで納得した。

「とは僕は言いますが、真に帝国の臣民が恐れるべきは独逸でもなくましてや植民地の反乱でもありません」

「む?」

「『神子』様が老いていらっしゃるという情報がただの有象無象でなかった場合であります」

「!」

山口多聞が思わず周囲を見渡し、分厚い鉄壁に覆われた部屋に二人きりである事を確かめ、わずかに背中を脂汗に濡らした。

学者君が軽々と言ってのけたのは、爆弾発言や問題発言等という生やさしい代物ではなかった。

下手をすれば、山口多聞が学者君を己が手で処刑せねばならぬような事態を招く――さながら魔女狩りの法廷の場で自ら僕は魔女だと名乗り出たに等しい、『自殺発言』である。

「黙らんか!」

と彼がキチガイ多聞のふりをして激昂し怒鳴りつけたのは、この学者君を彼が心底気に入っていて、力の及ぶ限り守ってやりたかったためと、学者君の自殺発言があまりにも図星だったためである。

「つけ上がるな青二才が!」

だが学者君は全く彼の恫喝にうろたえもせず、ただ全てを見通したかのように透明な、青年らしい純粋で傷つきやすい目で彼を見据えた。

学者君は彼の意図を悟ったのか即座にこう言った。

「申し訳ありませんでした、山口閣下」


 ――山口多聞は長門の甲板に立ち、東京湾から帝都を見つつ、その時のぞっとしない思いを振り返っていた。

綾長季太郎は、その慧眼や才覚にも震えが来るが、何より命知らずの度胸があるのが

それが山口多聞の学者君に対する結論であった。

だが彼は、学者君への父性に似た厳めしい友愛と親愛の思いは、結論のように綺麗に割り切ることが出来なかった。

それで彼は、念押しするようにもう一度繰り返した。

「いいか、君には義務がある。 帝国の未来を担う若者としての大切な義務だ。 それを帝国臣民として断じて忘れるな!」

「ハッ!」

これで大丈夫だろう、と山口多聞は少し安堵すると共に、学者君とこのように気軽に語らえる日は今日の午前中でほとんど最後なのだと、彼らしからぬ惜別の思いに浸った。

学者君と彼が過ごした時間は、正直、このような長い沈黙の時間ですら、心地よい時が多かった。

「……戦艦長門は良いフネでありました。 ビッグセブンの名に何一つもとらぬ、良い艦でありました」

やがて、はらはらと雪が舞いおちてくると、学者君は少しはにかんで口にした。

「そうか。 そうだろう」

と山口多聞は淡雪にかすむ帝都を見やって、頷いた。

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