第37話 この先を、きっと二人で歩いていく 上 【改訂版】

「誠人お兄ちゃん、忘れ物はないですか?」

 歩きながら沙織ちゃんに訊かれ、俺はちょっと考えた。特にない、と思う。

 だけど同時に、その質問自体がかなり間抜けであることにも気がついた。

「無いと思うけど……沙織ちゃん、それはそもそも家を出る前に訊かないとダメじゃない?」

 マンションを出て、すでに五分ぐらい経っている。

「あう……家を出る時に言うのを忘れてました」

 口に出してから自分でも気がついていたらしく、沙織ちゃんがバツが悪そうに照れている。


 前はたまたま家を出るときにかち合ったら、一緒に駅まで行っていた。

 今は時間を合わせていつも一緒に家を出ている。

 そういう何気ない一つ一つが、付き合っているんだと実感を与えてくれて……なにか、嬉しい。

 一緒に歩きながら、俺は自然に俺の腕に掴まる沙織ちゃんに向かって苦笑した。

「忘れ物はともかくとしてさ、沙織ちゃん」

「はい?」

「俺たちやっと兄妹の関係から恋人になったんだけど……そうしたら『誠人さん』から『誠人お兄ちゃん』になるって、普通逆じゃない?」

「いいんです!」

 そう言いつつも、沙織ちゃんもちょっとほろ苦い表情を浮かべている。

「ずっと言いたかったんです。言いたかったけど言えなかった分、しばらくはそのままでいいんです!」

 俺はすっかり忘れていたけど、沙織ちゃんにしてみれば積もり積もった十数年間の思いが「お兄ちゃん」って呼び名にこもっている。その気持ちはわからなくもないけれど……。

「来月、沙織ちゃんのお父さんが帰ってきたら大変だな……」

 あの沙織ちゃん命なお父さんが、そんなカワイイ娘を見たらどんな反応を示すか……。

 そういうことを想像している俺に、シビアな沙織ちゃんがツッコミを入れた。

「私たちが付き合い始めたことを考えたら、多分名前の呼び方ぐらいどうでもいいような騒ぎになると思います」

「……それはそうだね」

 そうだよな。一番の要点はそっちだった。

 考えただけで……凄いことになりそうだ。

「ふふっ。頑張ってくださいね」

 クスクス笑う沙織ちゃんが可愛くて、俺は思わず頬をつついた。

「たぶん沙織ちゃんもメチャクチャ怒られるぞ」

「いいんです」

 修羅場が予想されるのに沙織ちゃんは満ち足りた笑顔で、どこかさっぱりした様子だった。

「それだって、付き合えたからこその贅沢ですよ。甘んじて受けます」

「それもそうか」

 オレと沙織ちゃんは、顔を見合わせると、どちらからともなくもう一度笑い合った。



   ◆



 大学の構内を歩いていると、いつかみたいに文奈ちゃんが喫茶部のテラスでぼーっと空を見ていた。これこそなんか既視感デジャヴを感じる。

 絡まれないよう、おれは彼女をそっとしておいて先を急ぐことにした。

「マコチン君、知り合いに挨拶もしないで通り過ぎるとは何事ですか」

「見えてたのかよ!?」

 仕方なく……本当に仕方なく彼女の席に立ち寄ると、机の上にデートガイドやら書き込みしたメモやらが広げてあった。次のJKおさんぽの準備らしい。

「……わりと乗り気なんだな」

 おもわず呟いた俺の言葉に、文奈ちゃんがジロリと睨んで来た……気がする感じの茫洋とした目を向けてきた。

「わりと、とは何ですか。私はゴンタ君が飽きないように、日夜コーディネーターとしてプランニングを頑張っているのです」

「そこまでゴンタの事を考えてやっているんなら、ちゃんとガールフレンドとして付き合ってやったらどうだよ」

 文奈ちゃんは無表情な中にも、どことなく不満そうな気配を見せた。慣れてきて判ったけど、この子実は飼猫ぐらいは表情があるみたいだ。

「私は私に夢中なゴンタ君を大事に思っていますよ? サオリンを妹だと自己暗示をかけて、自分自身を偽っていたヘタレチキンの玉無しダメ男とは違います」

 ずいぶん盛大に貶してくれるな、この子。言いたい放題じゃねえか。

「でも、有料なんだろ?」

「それはゴンタ君に合わせた結果だと何度も言っているでしょう。しつこいですね」

「そうだけどさ……前に聞いてから結構経つよね?」

「あれはクリスマス前でしたね」

 俺が進展の無さに呆れていると、文奈ちゃんも記憶を探るような様子を見せた。ちょっと宙に視線を彷徨わせ、それから俺の顔をじっと見る。

「……ご自分の進捗をよくよく見返してから、他人様の話に口を出されたら如何でしょう?」

「うっ!」

 言ってくれる……。

「そりゃあ確かに俺の方も、あれから一か月話が進まなかったけどさ……」

「わかればいいんです。以後気を付けるように」

 勝手に納得して勝手に話を終わらせてデートガイドに視線を落とす文奈ちゃん。

 いや、ちょっと待てや。

 俺はこの舐めた態度をとる女子高生に慌ててツッコミを入れた。

「いやいやいや、君たちはそれ以上でしょうが! 俺の方の告白が上手く行かなかったのは沙織ちゃんのお父さんが乱入したせいだぞ!? チキンだったからじゃないぞ!」

「結果が全てです」

「だったらいまだに風営法の摘発受けそうな君たちはなんなの!? それで俺だけ言われるって、全然納得いかないんだが」

「私は寛大な心で気にしませんよ?」

「俺は心が狭いと言われたって説明を求めたい」

「みみっちい男ですね」

「うるさい」

 そこから文奈ちゃんに彼女がいかにJKビジネスが不本意であるか、今後の展開に悩んでいるかを聞かされたのだけど……。

「……いやでも現実問題、いまだに金を巻き上げているのは確かだよな」

「それは否定はしません。でも、本当はゴンタ君に『商売抜きで付き合ってくれ!』って言われたいんです。そうしたら私たち、本当の彼氏彼女にランクアップできると思うんです」

 そういって文奈ちゃんはまたどこか遠くを見つめた。その横顔は、間違いなく恋する少女そのもので……。

「……ただの守銭奴じゃなかったんだな」

「それはゴンタ君と円滑に話すための仮面ペルソナだと、何度言ったらわかるんですか」

「ふーん。じゃあさ」

「なんですか?」

「ゴンタが勇気を出して君の気持ちに応えた時、その貯めこんだゴンタ資金は返すのかい?」

 文奈ちゃんは今度こそ明後日の方向を向いた。

「……努力に伴う労働には、正当な対価を要求してもいいと思うんです」

「やっぱり守銭奴だろ、おまえ」

 今までの話、全部ぶち壊しじゃねえか。



   ◆



 大学を出て予約を入れている洋菓子店パティスリーへ向かっている途中で、俺は横合いから声をかけられた。

「おっ! おーい、マコチン!」

 うん。この声、この呼び方。見るまでもなく、アレしかいない。

 呼びかけてくる快活な声を無視して歩調を速めようとしたら……ヤツはいきなり攻撃を仕掛けてきやがった。足に絡まるように、傘を視界の端ギリギリから膝の辺りに突き込んで来る。

「うぉっ、危なっ!?」

 いつの間に回り込んだんだ!? 行動が素早いうえに先が読めねえ!?

「なんだいマコチン、ちゃんと見えてんじゃん」

 たたらを踏んで何とかかわした俺に、傘を振り回しながらエっちゃんが鼻を鳴らす。

「名前を呼ばれたらちゃんと返事をしろと、幼稚園で教わらなかったのかね?」

「エっちゃんこそ危険なことをしちゃいけませんと、幼稚園で叱られなかったのか!?」


 エっちゃんは今日は知らない女の子と一緒だった。珍しい気がしたけど、よく考えたら別におかしい事ではない。

 そうだよな……エっちゃんにだって、沙織ちゃんや文奈ちゃん以外にも友達はいるよな。さっき文奈ちゃんには大学で会ったし、沙織ちゃんは俺たちのマンションに向かっているはずだ。別にいつでも三人一組で動いているわけじゃない。

 俺が物珍しい気持ちを隠さず見ていると、エっちゃんが同行している女子高生を振り返った。

「ああ、マコチン彼女のこと覚えてない? 八洲祭の時に会ってるんだけど」

「えっ?」 

 まじまじ見てみるけど、ちょっとこの子は覚えていない。あの時こんな子と話したっけかな?

「風紀委員の子は、違うよなあ……」

「クラス展示の個室の外で、ボイレコが停まったって教えてくれた麻里っち」

「顔を見てねえよ!」

 マジなんだかボケなんだかわからないエっちゃんに、俺は思わずツッコんだ。




 そう言えば、この子に訊きたいことがあったんだった。


 ちょうど沙織ちゃんがいないところでたまたま会ったから、俺は以前から気になっていたことをエっちゃんに訊くことにした。

「あのさ、エっちゃん。ちょっと気になっていたんだけど」

「なんじゃい? ブラのサイズは聞かんとくれよ? サオリンと比べられたら泣きたくなるからね」

「じゃねえよ」

 俺はショートカットのJKの顔を至近からまじまじと覗き込んだ。

「エっちゃん、君もしかして……実は結構、切れ者?」

「チミはいったい何を言い出すのかね。どこからどう見てもエッコちゃんデキる女っぽいじゃん」

「いや、どこからどう見てもバカに見えるんだけどさ」

「なんでマコチンあたしには毒舌を隠さないかな」

 俺はブーブー言う女子高生にグイっと顔を近づけ、推論を突きつけた。

「沙織ちゃんと文奈ちゃんにそれぞれ彼女たちの事情を聴いてさ、ふと思ったんだよね。エっちゃん言動が突拍子もないけど、おかしな行動で煽ってくるわりに無駄が無いっていうか……上手い方向に気がするんだよな」

「ほう!」

 エっちゃんが面白そうにニヤニヤしているのを見て、俺は直感が正しかったのを悟った。この子、韜晦しているけど……いろんなことをやってる。

 だいたい知人レベルの男にいきなり鼻を突き合わせるような距離まで近づかれたら、普通は反射的に後ろに下がるかのけ反るぐらいはするものだ。ところがこの子は表情一つ変えずに挑発的に笑っている。かなり胆力がある証拠だと思う。


「なんで君は、わざわざ自分をバカっぽく見せてるんだ?」

「そんなことを聞いてきたヤツは初めてだなあ」

 ぼやきながらエっちゃんは麻里っちと紹介された友達を振り返る。そっちも話を聞いていて何も言わないということは、素のエっちゃんを知っているぐらいの仲なんだろう。

 麻里っちが肩をすくめた。

「沙織の彼氏なら説明してやるぐらい、いいんじゃない?」

「あー……ま、智君とも知らない仲じゃないしなあ」

 エっちゃんはため息を一つついて俺を見た。

「サオリン達には話したんだけどさ、あたし智君と中二の頃から付き合ってんのよ」

「ああ」

 幼馴染だって言ってたな。


「んで。中学の頃はあたし、勉強だけしてる超生真面目少女でさ」


「……」

 俺の表情からいろいろ察したらしい。

「おいおいおい! 麻里っち、見たかよ!? この男自分で説明しろって言っといて、全然人の話信じてないよ!」

「今の悦子しか知らなかったら、そうなるかもね」

 麻里っちが俺の方を向いた。

「信じられなくって当たり前だけど、本当だよ? 私オナ中だけど、コイツ“高校デビュー”なのよ。中学の時は勉強ばっかりでニコリともしない機械みたいなヤツで」

「あー、『全自動おべんきょマシーン』とか陰口叩かれてたっけな」

 信じられない話だけど、証人がいる以上本当みたいだ……エっちゃんが勉強ばかりの優等生?

「マジか……」

「驚いた?」

「そんなに勉強してるのにバカなの?」

 俺は股間を鋭く突いてきたエっちゃんの傘を、まさに紙一重で躱した。

「誰がバカじゃい。あたし中学三年間、定期テスト全部学年トップよ? 八洲こうこうは有名進学校だからさすがにそれは無理だけど、二ケタに落ちたことないよ?」

「嘘だろ!? エっちゃんが……勉強ができるだと……!?」

 天動説を否定された中世の学者のようによろめく俺を、ジト目のエッちゃんが傘でつついた。

「あたしに言わせりゃ、マコチンが大学現役合格の方が信じられないんだけど」

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