第9話 沙織ちゃんの秘かな楽しみ 【改訂版】
沙織は狭い六畳間のはたき掛けと拭き掃除をあっという間に終え、ベランダの外を眺めた。
「まだ日も高いし……シーツを洗っちゃっても大丈夫だよね」
洗濯機はまだ溜まっていた服を洗っている。
シーツが投入できるのは二十分後。スピーディモードで洗濯するとシーツが洗い上がるのにそれから三十分かかるけど、今日の天気なら夕方までに十分乾くと思う。
キッチンはまだ綺麗。
風呂とトイレはもう磨いた。
今はちょっと手持ち無沙汰。
だから。
「ちょっと、一休みしようかな」
いかにも仕方なさそうにそう言いながら、うずうずしている沙織は勢いよくベッドに身体を投げ出す。
狭いシングルベッドをゴロゴロ転がり、掛け布団を頭からかぶった。そのまま布団を抱きしめ、何度も深呼吸。
「ムフフフフ……うっはあ、お兄ちゃん成分補充!」
ちょっと他人様に見せられない恍惚とした笑顔で、沙織は夢見心地に呟いた。
誠人の匂いに包まれてスーハーしているとか、我ながら変態だと思う。
だけど、そう思っても止められない。本人を目の前にほとばしる誠人への想いを抑えるには、見えないところでこれぐらいさせてもらわないと堪え切れない。
十年も会えなかったんだし、最近じゃこれぐらいはいいじゃないかって思うようになってきた……友達にはとても言えないけど。
(うん、暴走してるのは判ってる)
でも停められない。この部屋は誠人お兄ちゃんに満ちている。
沙織が今片付けているのは当然、誠人の部屋だ。
「お兄ちゃん、覚えてないなんてズルいよなあ」
自分は幼稚園の時からずっと、誠人お兄ちゃん一筋に恋焦がれているのに。
お母さんには「美化しすぎ」と言われて呆れられているけど、そんなことはない。相変わらず誠人お兄ちゃんは優しいしカッコいい。優しすぎるのもじれったいけど。もうちょっと女にゲスくたって良いんじゃないだろうか。自分限定で。
スーパーヒーローみたいに思えたのは幼児の思い込み。現実はそんな大した話じゃないと、お母さんは言うけれど……逆に言ったら、大人になっても完璧超人と呼べる男なんてどれだけいるのだろう?
勉強もスポーツも出来て、喧嘩が強いけど人格者で……幼児のヒーローよりも、そこまで二十歳前の現実の男に要求する方が夢見過ぎじゃないの? そんなデキる人なんて、いったい何万人に一人いるのだろう。
平凡な女の子がそんな凄い人を射止められる確率となると、さらにぐっと下がって何十万人に一人のレベル。ハッキリ言えばまず無理だ。
そう考えたら、誰だってみんな平凡な男の子を好きになって幸せになっている。
だから沙織が誠人お兄ちゃんに惹かれたって、どこもおかしいところなんかない。
こうして誠人の布団をひっかぶってゴロゴロ転がっていると、沙織は誠人お兄ちゃんに抱き包まれている気になってくる(実際は布団)。
今日は良い陽気なので、段々温くなって来て沙織はそのままうとうとし始めた。しまりのない顔で寝言を漏らす。
「えへへ……私だってわかってるもの。お兄ちゃんが成績も見た目も中ぐらいだって。でも私はお兄ちゃんが好きだし、成績は頑張ってもらえばいいし……」
沙織ちゃんは誠人を尻に引く気満々。
「ムッツリでかなりスケベだよってお母さん言うけど、それは全部私に向いていれば何も問題ない話だしい……あっ!」
夢うつつだった沙織は誠人がムッツリというところで覚醒して飛び起きた。見ればベランダの洗濯機がちょうどチャイムを鳴らして停まったところだった。
「ふー……危ない危ない。誠人お兄ちゃんがエッチだってところで、ベッドを連想して良かったわ」
多分誠人は不本意だ。
急いでシーツを引っぺがした沙織は洗濯機の中身を入れ替える。洗濯物を干すと、いかにも一仕事終えた気になるから不思議だ。
だいたいの掃除を終えた部屋で、シーツの洗い上がりを待つ手持ち無沙汰の時間。
「……さて、と」
沙織はキリッと顔を引き締め、スクッと仁王立ちになった。
「それでは、誠人お兄ちゃんの“妻”として……大事なチェックを始めましょう」
沙織は決意も新たに床に四つん這いになると、本棚の一番下の段をじっくり眺めた。
そこにある雑多な判型の本の並び、差し込みの深さ、間に何か挟まってないかどうか。よく観察してからそーっとブロックに分けて抜き出し、静かに床に置く。本の無くなった段に残り物が無いか見落としも確認して、本棚の底板に手をかける。
そっと静かに底板を抜くと……そこには隠されていたスペースが現れた。
「うーん、お兄ちゃんのコレクションは先週と変わらずか」
引っ越しの荷ほどきの時に発見したコレクションはだいたい処分してしまったらしく、今はこのスペースに隠せるぐらいに少数精鋭になっている。
前回チェックした時と同じに見えるけど、沙織は決して手抜きをしない。念のためにきちんと全部取り出して、頻出傾向の確認をする。この“妻の務め”が、誠人の部屋を掃除する時の沙織のひそかな楽しみになっている。
「お兄ちゃん、ギャル系は全然持ってないんだよね。私もああいうファッション苦手だから、派手な子に興味無いのは助かるけど」
誠人の女の趣味をコレクションから分析していく。彼の好みを把握しておかないと、いつどこで他の女に目が行くか判らない。
「清楚系で、かつ巨乳が多い……バニーは三枚から増えてないなあ。JKとOLは拮抗してる……どっちに転ぶか、今後に注目って所ね」
洗濯機が回っている間、じっくり研究する。
今のところは路線の変更なしで大丈夫。そう判断して、沙織は“資料”を戻し始めた。
全く同じ配置、角度に積み上げ、底板を静かに嵌め直す。
トラップで挟んであった付箋としおりを、位置を変えずに挟むのも忘れない。
最下段の本も元通りに復元し、ホッと一息ついたところで洗濯機のチャイムが鳴った。
◆
俺が帰ってきたら、明らかに部屋が掃除されていた。
「やっぱり沙織ちゃん来てたか……今日あたり掃除に来ると思ったんだよな」
もう合鍵で侵入するのに何のためらいもない沙織ちゃんは、俺がいない時にも掃除や洗濯をしに来てくれるようになった。「大家の美人娘」が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるなんて漫画の世界の話だと思っていたんだけど、沙織ちゃんリアルにやってくれるんだよな……。
このマンションに住んでいる学生はたくさんいると思うのだが、見た感じ俺のところにしか入り込んでまで世話したりはしないみたい。
たまたま顔なじみになっただけの俺の一人暮らしを気にかけてくれるのは大変ありがたいし、こんなカワイイ娘に慕われているのはとても嬉しい。
ただ知らないうちに自由に出入りされるってなると、常に女子に見られてもいいレベルに部屋を維持しなくちゃならないわけで……それはそれで、結構しんどい。
一回管理人さんに、
「沙織ちゃんが無断侵入して困っているんですけど」
と遠回しに言ってみたら、
「ストーカーに付きまとわれてるって警察に訴えてみたら?」
とピッチャーライナーを打ち込まれてしまった。
できるわけがない。
というか。
“すっごいかわいい子がなぜか俺だけに親切で、身の回りの世話を過剰にしてくれて困ってます”と訴える……そんなの警察に、「リア充爆発しろ!」って怒鳴られて追い返されるに決まってる。
綺麗に整頓された部屋でベッドに腰掛けながら、俺はついついため息をついた。
「はー……沙織ちゃんが妹感覚じゃなくって、彼女だったらなぁ。そりゃもう文句のつけようも無いんだけど」
どこがどう違うかって言うと……“手を出せるかどうか”か。
沙織ちゃんは好意でここまでやってくれてるって言うのに……俺って最低だな。
「何が困るって、これなんだよなあ」
俺は本棚の最下段を抜いて、隠しポケットを開けた。毎度のことながら、わからないように設置した封印も破られていないのを確認してホッとする。
ここには到着早々沙織ちゃんに見られてしまったコレクションから、涙を呑んで厳選した真・コレクションが入っている。面白い構造だと思って買った本棚が、まさか本当に必要になるとは思わなかった。
「これだけは沙織ちゃんに見られるわけには行かないからな」
“男の欲望”を笑って済ませてくれた沙織ちゃんだけど、ここのを見たらさすがの笑顔も引きつるに違いない。だって……。
「沙織ちゃんのコスプレにやられて目覚めたフェチ物ばかりだもんなぁ。こんなの見たら、引くどころじゃないだろうな」
黒髪和風美少女に巨乳ちゃん、バニーガール、ハイレグ水着。これを見たら誰を連想するかなんて明らかだ。
気を許している俺にそんな目で見られていると判ったら……。
沙織ちゃんに今後避けられるようになったら、俺もう大学に行く気力も無くなるかもしれん。
彼女がいつ部屋に入り込んでもいいように、コレの出しっ放しはしないと俺は常に気をつけている。
◆
もう規定の勤務時間は過ぎているけど、居残りしている管理人室で詩織は電話をかけていた。
「て感じなんだよね。もう初々しくて、じれったいやら砂吐きたいやら」
『見なけりゃいいじゃない。十八と十六よ? いい加減自力でどうにでもするでしょ』
電話の相手は沢田千咲。詩織の親友にして誠人君の母親だ。
「自力で何とかなってくれればいいけどね。あたしが見たところ無理じゃないかなあ。おたくの誠人君もうちの沙織もどこか抜けてるんだよなあ」
『そんなに酷いの? まあ沙織ちゃんの思い込みも凄いと思うけど。だいたい私が言うのもなんだけど、誠人ってそんなに執着するようなイケメン? 沙織ちゃんは美人に育ちすぎて、私今から未来の嫁にビビっているんだけど』
「そいつはあたしに訊かないで。沙織にしかわかんないわよ、まだ熱を上げている理由も誠人君のイケメンぶりも。ま、十年会ってないってのがムダに愛を育んだかなって思ってるんだけどね」
電話の向こうで長々息を吐きだす音が聞こえる。
『一方通行ってのが申し訳なくて泣けてくるけどね。そんなに熱く想われているのに、うちの愚息は全く気がついていないなんて……私がそっちにいたら張り倒してやる所だわ』
「うすうす気がついちゃいるんじゃないかな」
詩織が見たところ、沙織の過剰なサービスに誠人君が戸惑っているところはある。
「でも、なんで沙織が押せ押せなのかわからなくて直感を信じきれてないみたいよ。昔のことを忘れているってのがデカいかな?」
『そりゃそうだわ』
思わず電話を挟んで両側で苦笑しあう、母親二人。
『だけどいいの? 親がけしかけちゃって。私たち来年お祖母ちゃんかも知れないわよ?』
「この歳でバアちゃん呼ばわりは勘弁して欲しいね。だけど娘が十年も恋焦がれていた初恋だもの。出来れば叶うといいなとは思うさ」
『おばあちゃんと呼ばれても』
「ワハハハハハハ!」
詩織は事務所に持ち込んだ缶ビールのプルタブを引いた。小気味よい音と共に独特の芳香が立ち昇る。
「いつまでも、このまま続くとも思えないねえ。鍵は誠人君が“沙織の気持ち”を直視できるか、かな」
『意外と長くかかるかもよ?』
「へえ? どうして?」
『一度も彼女ができたことがない誠人だからよ。あの自信の無さと鈍感ぶりを、甘く見ないことね』
「ウワハハハハハハ!」
子育ての悩みを話す筈の長電話は、この後も笑い声を響かせながらしばらく続いていた。
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