第8話 甘く見ていました 下  【改訂版】

「すみません、取り乱しちゃって。ここ、うちの部屋じゃないんでした」

 やっと落ち着いた沙織ちゃんは、そう言ってショボンと謝ってくれた。

 いや、俺の部屋だから良いってわけでもないけど。男一人暮らしの軒先に女性物の下着が干してある理由がつかないので、それはそれでマズいんだけどね。


 俺とバスタオルを巻いただけの沙織ちゃんは、並んでベッドに腰かけていた。

 他に座る所が無いので仕方ない。まるでラブホで事後のカップルが深刻な話をしているように見えるかもしれないが、そんな事実は無いことだけはきっぱり断言しておきたい。管理人さんに。

「ごめん、俺も考え無しだった。とりあえず沙織ちゃん」

「はい」

「君が風邪を引かないためには、今すぐ家に帰ってシャワーを浴びないといけないと思うんだけど……どうやって帰ろうね」

 いつかみたいに服がない。

 前はまだバニーガールだったけど、今日は下着さえ付けていない。救いは鍵はあるからそのまま飛び込めるという事か。それにしたって、一瞬でも外を歩くのは躊躇われる格好なのは間違いない。

「あ、あのう……」

「うん」

 意外と沙織ちゃんは冷静に見えた。

「また上着貸してもらえませんか? バスタオルなら、まだスカートっぽく見えますから」

 二度目だからなのか、さっきまで天日干しに取り乱していたと思えないほど沙織ちゃんは落ち着いて代案を出してきた。

「なるほど。考えたね」

 あれか? 女子的に恥ずかしいかどうかはパンティラインが見えているかどうかか?

「実は私も先日のアレで反省しまして」

「ほうほう」

 やっぱりバニーで帰ったのはトラウマになったと見える。

「またああいう事が起きた時、どう対処したらいいのかいろいろ検討を重ねたんです!」

 力強く“してやったり!”というドヤ顔をする沙織ちゃん。

 でも研究するのなら、そういう事態をほうを考えてみてくれないだろうか。

 そんなことを今言ったら沙織ちゃんがまた動転するだろうから、俺は口にするのは止めておいた。

「それにしても……」

「はい?」

「いや、こっちの話」

 沙織ちゃんがここ数か月で順調に露出狂に成長しつつあるというか、羞恥心が死にかけているのは俺に責任があるんだろうか?

 そんなことを考えながら、俺は収納の中を掻き回した。




 出来るだけ裾が長い上着をという事で、季節外れのベンチコートを沙織ちゃんに着せた。冬物だけど、どうせ着ているのはドアからドアへの一分か二分だ。

「俺が先に出て通行人とか確認するから、声を掛けたら沙織ちゃんは出て来て」

「はい、重ね重ねご迷惑掛けます……」

「あーいやいや、最初の最初は俺が厄介ごとを持ち込んだんだし」

 またしょげた沙織ちゃんを励まし、俺が先に廊下へ出て人影を確かめる。マンションの廊下には誰もいない。眼下の街並みを見ても通行人も無し。いつも通りの平和な光景だ。町の皆さん、ここを半裸の美少女が通りますよ?


 俺は預かった鍵で管理人さん宅の玄関を開け、沙織ちゃんを呼んだ。沙織ちゃんは濡れた服を入れたビニール袋を持って急いでやって来る。走らないのはバスタオルが心配だからか?

 中に入ってきて扉を閉め、沙織ちゃんはほぉーっと息を吐いた。さすがに緊張していたらしい。

「ありがとうございました……」

「お礼を言われるほどの事じゃないさ」

 脱力した様子の沙織ちゃんにほんわかと笑いかけられ、俺は心臓がジャンプした。

(この子、本当に気が緩んだ時の顔がイイんだよな)

 この顔もいつまでも見ていたいくらい可愛いけど、彼女の方が先に気持ちを切り替えた。ピンチを切り抜けて自宅に戻ったおかげか、沙織ちゃんは活発さを取り戻してキッチンをパタパタ歩き回る。

「これ、ありがとうございました」

 俺に畳んだベンチコートを返し、沙織ちゃんはバスタオルを身体に巻いただけのままで冷蔵庫を覗き込んだ。

「何か飲んで行ってください。アイスコーヒーと、レモンソーダが……」

「あ、いや沙織ちゃん? お茶を出してくれる前に服を着た方が……」

 人の世話をする前に、まず自分の世話をして?

 沙織ちゃんに釣られて俺も部屋に上がったところで、


 ガチャッ。


 鍵をかけたはずの玄関が再び開いた音がした。

「え?」

「あ!」

「……うわぉ」

 振り向いたそこには、予想通り……よそ行きの格好をした管理人さんが、サイドバッグを抱えて立っていた。




 いつもかったるそうな雰囲気でカッターシャツにスラックスという格好だけど、今日はちゃんとタイトスーツ姿でメイクもナチュラルながら決めている。本当に出張だったみたい。

 管理人さんはこうしてみるとクールな美人だし、普段ほぼノーメイクでアレならさすが沙織ちゃんのお母さんだ。

 ……まあ今はそんなことを観察しているの自体、現実逃避でしかないんだけどね。


 しばし室内を黙って眺めていた管理人さんが口を開いた。

「親の不在をいいことに、くんずほぐれつ朝から励んで今ちょうど夜明けのコーヒーブレイクってところか……」

「違うからね!? そんなんじゃないんだから!」

「あんたのその格好で、他に取りようがないだろう」

「これは誠人さんの部屋で服が全部駄目になっちゃったから、仕方なく!」

 管理人さんが今度は俺を見た。

「親の監視が行き届かない誠人君の部屋で、服がグッチャグチャになって着られなくなるような凄いプレイを楽しんできたと」

「そうじゃないんだったら!」

「今時の高校生は早熟だとは聞くけど、まさか真面目だと思っていたうちの娘が男の部屋からストリーキングで朝帰りとは……お母さんショックぅ」

「だからお母さんってば! ……ストリー……って何? 何かの専門用語?」

「沙織ちゃん、その辺でストップ。管理人さん、世代格差にショックを受けているから」

 いや、どっちかって言うと汚れた自分に愕然とした、てところか。年齢で言ったら俺だってわかるもんな。


 沙織ちゃんがシャワーを浴びて服を着てくるあいだに、俺は出してくれたアイスコーヒーを飲みながら管理人さんに事の経緯を釈明した。何ら不純なことはしていないのは理解してもらえたけど……管理人さんが頭痛を我慢するみたいにこめかみを押さえた。

「沙織、あんたねえ……まず業者を呼びなさい! その為に緊急連絡先リストがあるでしょう!?」

「ごめんなさい……」

「誠人君も途中で気づいたのなら止めなさい! この子の抜けっぷりは知ってるでしょ!?」

「すみません」

 あれ? 俺まで叱られる流れになってる?

「素人が下手に手を出したら破損が拡大することも多いんだから、余計なことは考えない。まして管理人が騒ぎを大きくしたなんて、オーナーさんにも申し訳が立たないでしょ」

「はい。お母さんごめんなさい」

 自分に非があると自覚している時、たとえ相手がイカレた管理人さんでも沙織ちゃんは口答えしないようだ。シュンとした顔でちゃんと反省している。

 今日は空回りしたけど、素直でいい子なんだよな……決して見た目だけの美人じゃない。

 そして管理人さんも、大事な所ではきちんと“親”をしてるんだなあ。普段はどちらかというとアテにならないのは管理人さんの方に見えるのに。

「誠人君、今なにか不埒な事を考えていなかった?」

「いえ、全然!」


 管理人さんが俺に薄いファイルを手渡した。

「設備の故障とか何か異常があった時は、それぞれ業者が決まっているからすぐに電話すればいいわ。これでわからない時は一番上に書いてある不動産会社に電話すれば対応を考えてくれるから」

「わかりました」

 受け取ったリストに目を走らせつつも、俺はふと疑問に思った。

(あれ? これ管理人に頼らず自分で全部やれってこと?)

「それから二ページ目に定期点検の業者と時期があるから。ずっと立ち会う必要はないけど、業者が何か確認したい時もあるから頭だけは一緒に居てね?」

「はあ」

「滅多に無いけど、公共料金の滞納で徴収人が訪ねてくることもあるの。何か月も溜め込むような悪質なのは、不動産会社と情報は共有ね? 家賃も滞納する可能性があるから。だけど個人情報でもあるから、たとえ無関係な友人にも喋らないこと」

「ちょっと待って下さい管理人さん!? あんた俺に管理人業務を押し付けようとしているでしょ!?」

「だって沙織が時々アテにならない事があるんだもの。今日みたいに」

「だってじゃねえよ!? そもそも沙織ちゃんだって代理でしょ!? 基本はあんたの仕事でしょ!?」

「ところであんたの部屋、鍵開けっ放しじゃないの?」

「そうだった!」

 この無責任管理人にはもっと言いたいこともあるんだけど、部屋を開けっぱなしで時間が経っているのも事実だ。俺はぐっとこらえて管理人さん宅を辞去することにした、

 ……沙織ちゃんがまた、変に丸め込まれないといいけど。



   ◆



 誠人が帰ったのを見送り、詩織はうなだれる娘に口調を一転して問いかけた。

「んで? あんた真面目にやってぶっ壊してきたの?」

「うん……いいところ見せようと思ったら、ケアレスミスで騒ぎを大きくしちゃって」

「そういう所で点数を稼ぐのは男の仕事よ。あんた、そういう所が抜けてるわよね」

 茶を飲んて舌を湿らすと、娘が脱いできた服が入ったビニール袋をちらりと眺める。

「にしてもあんた、ほんとアドリブに弱いわね」

「え? というと?」

「せっかく男の部屋でずぶ濡れになったんでしょうが。そこで風邪を引くから一緒にお風呂入りましょうとか、寒くて風邪引きそうだからあなたが暖めてとか、寝技に持ち込む手がいくらでもあるでしょうが」

 鬱陶しいアドバイスなんか言うつもりも無かったけど、娘がいつまでもとろくさい事をしているのでついつい指摘を入れてしまう。

 どうにもこの二人はもどかしいを通り越して、これ無理なんじゃねとかいう気になってくる。いまどきの若いのなんて、ちょっときっかけがあれば簡単にくっつくもんじゃないの?

 詩織に言われて、娘は真っ赤になって両手を振った。その顔を愛しの「お兄ちゃん」にみせてやれっての。

「そんなみたいな色仕掛けなんてできないよ! 下心が見え見えじゃない、恥ずかしい……」

「あんた、バニーや競泳水着で接待しておいて……」

「そうだお母さん! 誠人お兄ちゃんソレ引いてたよ!? 普通ありえないって」

「当たり前だ、アホウ。ターゲットにドン引きされる前に自分で気付きなさい!」

「自分で騙して着せといて、酷い!」

「ちっとは常識で考えなさいよ、沙織。ホント、誠人君が絡むとポンコツになるあんたが心配……」

 コイツらが両思いになるまで、思いのほか時間がかかりそうだ。

 詩織はうんざりしながら、もう一口茶を啜った。



   ◆



 俺は床の拭き掃除を終えて、雑巾を洗おうとして気がついた。

「蛇口の修理、まだ業者呼んでなかった……」

 今は夜の十時。今日はもう、業者は来てくれないよなあ……。

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