第6話 教えてください 【改訂版】

 俺の秘蔵コレクションを気にしないと言った沙織ちゃんの言葉は嘘ではなく、四月に入っても沙織ちゃんは会えば話をして、時々ご飯の心配をしてくれる。その態度に男の欲望を見てしまった心の隔たりは微塵も感じられず、びくついていた俺も二週間もしたら安心する心の余裕が出来てきた。

 そして最近……。




 チャイムが鳴り、俺は繋がったインターホンに向かって「どうぞ」と返事をした。返事をしておきながら、扉を開けに行かないのは。

 ガチャガチャと鍵を回す音がして、沙織ちゃんが顔を出した。

「誠人さん、こんばんは」

 どうせ向こうが合鍵を持っているからだ。


 沙織ちゃんをカノジョ認定して合鍵を渡した……なんて、彼女の心の広さを勘違いして調子に乗っているような話ではない。

 バニーで待機していた一件からも判るとおり、沙織ちゃんは管理人さんが持っているマスターキーで俺の部屋に出入りすることができるのだ。

 管理人でもない者がマスターキーを持ち出して、赤の他人の部屋を開けちゃうのはどうかなと思わないでもない。だけど、勃った所アレコレクションコレも見られて、逆に彼女のバニーガールあのすがた競泳水着このすがたを見てしまった今となってはどうでもいい気がするので追及する気も失せた。

 それに訪ねてくるのは、誰あろうカワイイ沙織ちゃんだ。彼女の不法侵入は、なんだか俺の方が得している気がしてしまって怒れない。

 これをやってるのが親の方だったら、即刻不動産屋に電話してクレームを入れる所だけど。


 親御さんの事を思い出したついでに、前から気になっていた事を訊いてみる。

「沙織ちゃん。こう頻繁に俺の部屋に来ることをさ、管理人さんは何か言ってなかった?」

 いくらお隣さんとはいえ、俺と沙織ちゃんは親戚でもない。赤の他人の若い男の部屋で長時間二人きりになることを、普通の親は良く思わない。管理人さんから「沙織を預ける」発言はあったけど、留守番させる小学生じゃあるまいし……。

 沙織ちゃんは俺の質問を別の意味に取ったみたいだった。

「あまり来ちゃうと、ご迷惑だったでしょうか……?」

「い、いや!? 俺の方は全然かまわないし、むしろどうせ一人だから沙織ちゃんが遊びに来てくれれば嬉しいんだけどね!?」

 ちょっと悲しそうに沙織ちゃんが訊き返してくるので、俺は慌ててそれは否定した。

「そうじゃなくて、管理人さんが親として俺のとこに来ることを何か言ってなかったかなって?」

 純粋に親の話だと強調すると、沙織ちゃんは小首を傾げて記憶を探った。

「お母さんですか。お母さんは『どうせ文系の大学生なんて入学直後はやる事ないし気が抜けてるし、授業なんかそもそも聞く気も無いからあんたが勉強見てもらいに行った方がヤツの為になるわ』って」

 あの人とは一度どこかできっちり話し合った方が良い気がするな。




 沙織ちゃんが来たので、俺は急いで座れる場所を用意する。

 俺の部屋は六畳一間なので、家具があるとかなり狭い。ベッドと本棚の間のわずかしかない床面に四角いちゃぶ台(四角くてもちゃぶ台というのだろうか?)が置いてあると、もうそれだけで俺が座る分しか床が見えなくなる。今はそのちゃぶ台をできるだけ本棚に寄せ、二人が床に座れるようにした。


 新学期が始まってから、沙織ちゃんは俺に勉強を教わりに来るようになった。

 俺に家庭教師が勤まるとは自分でも思えない。だけど沙織ちゃん的には、行きたい大学の学生だから知りたいことは教えられると思っているようだ。期待がツラい。

 管理人さん的には沙織ちゃんの「お兄ちゃん趣味」が俺で満足するなら、面倒が無くて良いと思っているらしい。ちょっと投げっ放しな感じがする。

「今日は数学を教えてください」

「あ、ああ」

 沙織ちゃんにキラキラした目で言われると、「その科目は苦手で」とか言いにくい。おかげで俺は最近、授業の合間は大学の学食で高校の参考書を開く羽目になっている。このあいだは予習を同期のゴンタに見られて「何をやっているんだ」と言われた。俺が見ても言うだろうな。

 こっちの事情は教えなかったが、まさか奴も俺が隣家の美少女と家庭教師ごっこ・・・をやっているとは思うまい。

 ただ「ごっこ」とつけるとおり、彼女が問題集を解いているところを見ても俺に訊く必要が無いように見える。いや、「にしか」見えない。それでも教わりに来るのは、管理人さんの言うところの「お兄ちゃん」に甘えたい気持ちの現れなのかもしれない。

 いちばん身近な年上として甘えられて嬉しいような、恋愛対象の異性と見られていなくてガッカリなような……この甘美な時間の俺の気持ちは、結構複雑なのだった。

 



「この公式なんですけど……」

「えーと、これはね」

 そして一日に数度はある、俺の生殺しタイムが今日も始まった。

 沙織ちゃんは時々、わからないところを俺に訊いて来る。勉強を見てもらうってのはそういうものだ。それは良いんだけど、彼女の聞き方が……。

「だからここをこっちへ持ってきて……」

「うんうん」

 頻出例題集を開いて指を指す俺の手元を、沙織ちゃんは横から肩に寄りかかるようにして覗いてくる。聞いているうちに無意識なのか、ぐいぐい横から俺と参考書の間に割り込むように前に出てくる。このまま行けば俺の膝に乗ってくるんじゃないかというレベルで、俺の胸に頭を預けてくるのだ。

 まるで小学生みたいな感じだけど、背が高いけど足が長い沙織ちゃんは座高が低いから俺の頭の下に入っちゃうんだよね。

 そもそも彼女が座る時の位置取りが、まずおかしい。普通なら向かい合わせに座るところを、「教えてもらう時に手元が見やすい」と言って横に座る。カップルシートかよ。

 そんな感じで元から手を腰に回しやすい位置に座るのに、質問している時はどんどん身を寄せてくる。その華奢な身体を思わず抱きしめて、うっかりキスしないように堪えるのが男にはどれほどつらいことか!

(自分の半裸をチラ見して来るような男だとわかっていて、それでも密室に二人きりで身体をすり寄せてくるとか!? もうなんなんだよ、この警戒心無しの絶対的信頼感!?)

 沙織ちゃんも管理人さんも(そういや名前聞いてないな……)、入居一か月の俺を信用し過ぎじゃないか? 男はみんなウルフだぞ? 沙織ちゃん親子は俺をチワワ程度に思っているのかもしれないが、俺は少なくとも柴犬レベルの肉食獣なんだぞ!? もっとケダモノを相手にしている自覚を持って欲しいと切に思う。

 ほとんど小脇に抱えた状態の沙織ちゃんから、シャンプーのフローラルな甘い香りがする。服越しに伝わる温かさが、これが夢じゃないと教えてくれる。だから欲望のままに夢中で抱きしめるなんてできない。だって現実だから。

 下宿の管理人の娘さんをムリヤリ! からの通報・退学・勘当は絶対にするわけには行かない。俺は我慢に我慢を重ねて、沙織ちゃんが満足して帰るまでの数時間を耐えるのだった。



   ◆

 


 詩織が今日の管理人業務を終えて自宅に戻ると、娘が自室のベッドでうつ伏せになっていじけていた。くだらないことでウジウジ悩む前に、夕飯の支度だけはしておいて欲しかった。

「沙織、また?」

「……うん」

 どうせいつものだろうと思ったら、やっぱりだった。

 単純な娘は大好きな誠人お兄ちゃんを悩殺しようと勉強にかこつけて押しかけて、成果を出せずに帰ってきて落ち込んでいるのだ。

 一度どんなことをやっているのか様子を聞いたら、相手の煩悩を刺激しまくるけど最後の一線を踏み越えるだけの決め手に欠ける最悪の手だった。そんなことをやっていれば、そりゃお互いフラストレーションが溜まるでしょうよ。聞いた詩織の方が頭が痛くなるだいばくしょうする話だった。

「うー……なんで手を出してこないのかな? 絶対反応しているのに」

「まあ、そりゃね」

 誠人君は沙織と引っ越してから知り合ったと思っているんだから、なんで沙織の好感度が最初からカンストしているんだかわかんないっての。でも教えてやんない。親だから。

 娘がガバッと起き上がった。

「お兄ちゃん、本当は絶対スケベなんだよ!? 本もDVDもいっぱい持ってたし!」

「そうか。それ本人に言っちゃダメだからな? 男にはスケベな自分を見せびらかしたい時と心が折れる時とあるんだからな?」

 忠告をどこまで聞いているのか、娘は枕を抱えてぶちぶち言い始めた。

「おかしい……エっちゃんが言ってたことは一通り試しているのに……お兄ちゃん、私は好みじゃないのかな? もっとギャルっぽい子とか……でもお兄ちゃんのにはそんなジャンル無かったしなあ。お母さん、誠人お兄ちゃんにきちんと好みの傾向とか聞いた方が良いのかな!?」

 解決法を見つけた! みたいなキメ顔でこっち見んな。

「止めてやんなよ。見られたの絶対まだ引きずってんだからさ。面と向かってそんなことを訊いたら、古傷えぐるだけじゃすまないんだから絶対やるなよ?」

「そう?」

「だいたいあんたが好みじゃないんじゃないかって、入居の日にあんたのバニー姿をあれだけチラチラ見てたじゃない。絶対気があるって」

「そう……そうだよね! 大丈夫だよね! お母さん、お兄ちゃんに手を出してもらうにはあと何をすればいいかな!?」

「それを親に訊くな。警官に飲酒運転のバレないコツを訊くようなものだからな? 立場ってヤツを考えろ」

「そうかー……こういうことを聞けるのって、後はエっちゃんしかいないからなあ」

「そういう相談を友達にしていることも親には言うな。俊雄さんにバレたら、あたしなんて言えばいいのよ」

「お父さんならきっと大丈夫だよ。いつだって優しいもの」

 そういうパパに限って、娘の恋愛問題だけはダメなもんなのよ、娘よ。

 また頭を抱えて悩み始めた娘を見る限り、今日の夕飯を用意させるのは無理そうだ。


 詩織は自分で冷蔵庫を漁って豆腐とアサリ、缶ビールを取り出す。酒蒸しと冷奴を酒で流し込もう。

(直接ズバッと言えば良さそうなもんだけどね)

 誠人君はどんくさいところがあるし、多分女ごころにも鈍感だ。沙織のノーガードな好意がなんでかわからず、世間体や立場を気にして必死に自制心を効かせているってところだろう。沙織の方から単刀直入に告白しないと、女の方もそのつもりだって言うのが伝わらないに違いない。

 女子高育ちで男女の駆け引きに疎い上に、“誠人お兄ちゃん”への思慕をこじらせた沙織は他の男なんか今まで眼中になかった。こっちはこっちで恋愛ノウハウは全くない。自力じゃ解決も難しかろう。

「……悩め悩め若人よ」

 詩織は懊悩する娘を見て、ニヤニヤ笑いながらビールをあおる。あ~、コイツらの迷走ぶりを見ているだけで大びん三本はいける。

 誠人君を口説き落とすアドバイスは、当然詩織からは教えてやらない。

 だって親だし、不順異性交遊を手助けするわけには行かないじゃない。

 そういうのは隠れてするから燃え上がるってものよ。


 ふと、沙織がこっちの手元を見た。

「……そうだ。私がバニーガールでお酌して、誠人お兄ちゃんがわけわかんなくなるまでぐいぐい飲ませちゃえば……」

「それは色んな意味でアウトだ沙織。絶対やるなよ」

 当たり前の指摘に、娘は不満そうに唇を尖らせた。

「お母さんはやったのに」

「それは時効だからいいんだよ。やらかし自慢ってのは古傷になってから言うもんだ」

 詩織はそれだけ娘に釘を刺すと、二本目のプルタブに指をかけた。

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