第8話
「悠真はもういいですぅ。愛梨は何かないのぉ?」
煮物が煮えている間、女たち三人は暇を持て余しているようだった。部屋の隅で魂を吐き出している僕には目もくれず、オディールが愛梨に話を振る。
「えっ、私?」
愛梨が戸惑って自分を指差す。
「そうですよぉ。愛梨はどこがよくて悠真と結婚したのですか? 付き合い始めたのはいつ? さあさあ、吐くのよぉ」
「え、ええっとぉ……」
愛梨が困っている。僕は隅の方でこっそり聞く耳を立てた。
「私と悠真さんが出会ったのは、大学に入りたての頃で……でも、何も特別なことはないですよ?」
「いいからいいからぁ」
オディールがせっつき、ライラもクッキーを頬張りながらちらちらと様子を伺っている。
「そうですね、じゃあ、初めて出会った時のことでも……」
部屋の隅で死んでいる僕を尻目に、愛梨は訥々と語り始めた。
愛梨は、合コンというものが初めてだった。
特別親しくもない女友達に連れられて、騒がしい飲み屋の中に入る。女三・男三の小規模なものだと聞いていた。店員にテーブル席を案内されて早々、三人並んだ男が手を振った。待ってたよー、とか、何頼むー?、とか、当たり障りのない会話をする。愛梨が笑顔で席に着こうとすると、女友達がつんつんと腕をつついた。
「じゃあ、ちょっとトイレ行ってくるね」
示し合わせたように二人が店の奥へ向かう。慌てて愛梨も後を追った。
「今日、どう?」
友達二人が髪を整えながら話し始めた。うーん、と唸っている。
「愛梨は?」
「え?」
「今日よ。どう?」
「えっと……。ちょっとドキドキしてるけど、体調はいいよ」
答えると、二人がドッと笑った。何かおかしいことを言ってしまったのだ。愛梨は赤面する。
「今日のメンツだってば! 三人座ってたでしょ? 愛梨マジ天然」
そういうことか。理由がわかってホッと胸をなでおろす。しかしどう、と聞かれても三人の顔もよく見ていないし、名前も知らない。
「……みんな、優しそうだった、かな?」
当たり前でしょー! と、他の二人がまた笑った。愛梨はまた赤くなって、少し下を向いた。
「でも愛梨、メイク手抜きじゃない? 大丈夫?」
言われて、鏡を見る。いつものアイシャドウ、いつものリップ、いつものパウダー。いつもの愛梨だ。
「まー、愛梨は元がいいからさ。あたしらと違って」
「え? あたしも入ってんの? それ」
「むしろあんたメインだし」
「ひど!」
ドッと笑いが巻き起こる。愛梨は会話に入っていない。そんな空気を感じて、彼女の意識はふっと遠くへ飛んで行った。
洗濯物、部屋干ししたけど乾いてるかな。叔母さんが送ってくれたみかん、ジャムにしようかな。バイト交代してもらった長谷川さん、今度お礼しなくっちゃ……。
「そろそろ戻ろっか」
二人がポーチをバッグにしまったのを見て、愛梨も後に続いた。
「おっ、来た来た。ねーねーこの中で誰が一番人気?」
男の幹事が自分たちを指差しながらおどけた調子で女友達に尋ねる。やだーとかいいながら、女友達が適当にはぐらかす。愛梨は、ソファー席の一番端に押し込められた。
笑顔を作って、お手拭きで手を拭く。お冷やを飲むと、もう手持ち無沙汰になった。
「愛梨ちゃん、モテるでしょ? 正直」
急に話を振られて、どきりとした。彼の名前、さっき自己紹介していたのにもう忘れている。目がギラギラと輝いて、酒のせいか少し充血していた。愛梨に話しかける瞬間、喉仏が動いたのが分かった。
「そんなこと……」
「ミスコン、辞退したんだっけ? 俺、狙っちゃおうかなー」
「お前鏡見て言えよ!」
男性陣の発言に、手を叩いて皆が喜ぶ。愛梨も控えめに笑った。
そのうち、トイレ休憩で誰かが立ち上がるたびに席の順序が入れ替わった。みんなよく喋る。愛梨も浮かない程度に話題を振った。やがてお開きの空気になり、全員が連絡先を交換した。
愛梨は他の五人から一歩下がって帰りながら、登録した連絡先とメンバーを見比べていた。もうどれがどの人かわからない。
「宮下さん」
声をかけられたことに気付くまで数秒かかった。苗字で呼ばれるのは久しぶりのような気がする。
「はい」
気付きました、ということを知らせるだけの返事。言ってから愛想がなさすぎることに気付いて、少し慌てる。
「あっ、あの、なんでしょうか?」
「どうしてちょっと離れてるの?」
「あっ……」
こういうところだ。自分の難を指摘された気がして、愛梨は少し早足になった。けれど、どうしても集団と歩調が合わない。早すぎたり、遅すぎたり。気にするうちに、自分の足がもつれそうになる。
愛梨は、どっと疲れている自分に気付いた。こんなことで疲れてしまう自分が悲しい。
「あは、私、ちょっとボーッとしてて。ごめんなさい」
悲しみを笑顔でごまかす。男の人はあまり関心なさそうに、そうなんだ、と呟いた。フォローも何もない。私は少しだけ違和感があって、ちらりと男の人を見た。
中肉中背のからだ。背筋は少し曲がっていて、どこか冴えない感じがする。髪はこだわりなさそうに染めた茶髪。目鼻立ちは整っているけれど控えめな風貌で、流行りの茶髪とチグハグな印象を与えている。
「宮下さん、僕の名前、覚えてないでしょ」
突然聞かれて、愛梨はどきりとする。
「ご、ごめんなさい、ボーッとしてて、あの」
慌ててフォローする言葉を探す。でも、そんな都合のいいものはなくて。
「いいよ、僕、目立つほうじゃないから」
男の人は少し寂しげに笑った。愛梨の胸がちくりと痛む。きっと、傷つけた。そんな自分に今度は怒りが湧いてきて、愛梨は口を開いた。
「あの、今、覚えます」
「え?」
「お、覚えますから、もう一度教えてもらえませんか」
男の人が困ったように頬を掻く。
「でも、正直、もう会う気ないんじゃない?」
「そんなこと、ない、です……」
なぜか声が消え入りそうになる。
「ふふ」
男の人が、初めて笑った。
「なんか宮下さん、嘘つくの下手そうだよね」
そうだろうか?
今日は、ごまかしと嘘の仕草しかしていないのに。
「……下手ですけど、嘘はたくさんつきます」
ぽつりと話した。
男の人はキョトンとして、また少し笑う。
「今の、正直だったね」
ハッとして男の人を見る。
「そんなの、誰だってそうだよ」
その横顔に、どこかほっとするのを感じた。
名前は、教えてくれないのだろうか?
いつの間にか、そんなふうに思っている自分に気づく。
「じゃあ、また会ったら」
ふと気付くと、駅前だった。彼は反対のホーム。一緒に電車を待つこともできない。
「その時に名前教えるから、またね」
呼び止める理由はない。そこまで彼に関心があるのかどうか、愛梨にはわからなかった。
電車に乗って、スマホを握りしめていると、手のひらに振動が伝わった。
『今度、ランチでもどうですか。もう一度自己紹介でもしながら』
連絡先を交換したSNSアプリに、メッセージが来ていた。愛梨は思わず笑った。だって、名前も一緒に表示されている。
『よろしくお願いします。悠真さん』
それだけ送って、愛梨はスマホをそっと抱きしめた。
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