第7話
「ええと、愛、愛……」
昼食に愛妻弁当をつまみながら、僕は黙々と「宿題」をやっていた。スマホのメモ帳にカチカチと文章を記入していく。
「そうだ、愛妻弁当の写真も参考になるかも」
パシャリと食べかけの弁当を写真に撮って、メモ帳アプリに追加する。
「何やってんすか? 相葉さん」
「うおっとぉ!」
覗き込んでくる同僚の榊原から、慌ててスマホの画面を隠した。こんなものを見られた日には僕は死ぬ。
「分かりました! 愛妻弁当の感想でしょ⁉︎ 相葉さん夫婦アッツアツですもんね! 羨まし〜」
「はは、まあ、そんなとこ……かな」
適当に誤魔化す。
「はぁ〜俺も美人で料理上手の嫁さんが欲しいなぁ〜」
「別に美人で飯がうまいから結婚したわけでは……」
どうでもいい会話をしていると、向かいの席の田中がにゅっと顔を出した。
「おい相葉! 今夜これいくぞ! これ!」
体育会系よろしくやたらと声を張り上げながら、グイッと一杯やるポーズをする。
「相葉さんはダメっすよ、新婚ホヤホヤで愛妻月間中なんですから〜」
榊原が気を使って断ってくれる。お付き合いしますよ、と言いかけて、ライラに今日は日暮れには帰ると約束したのを思い出す。
「すみません、今日はちょっと約束があって」
「だぁ〜っ」
田村が大げさに落胆のポーズをとる。
「お前なあ、嫁なんかほっといても死なねえから! 俺は死ぬぞ! 俺は酒と女がないと死ぬ!」
「田村さん死んでも誰も困らないじゃないですか」
「⁉︎」
榊原が真顔で身もふたもないことを言う。田村が解せぬと言う顔で固まった。
「相葉さんのプロポーズとか聞きました? 純愛っすよ純愛。心が汚れたものには分かんねっす」
「ああ? 俺なんか逆プロポーズされまくりだぞ」
「田村さん婚活女食いまくってるからっしょ。そのうち刺されますよ」
「ははは……」
二人の会話が赤裸々すぎて僕は苦笑する。
「今どき結婚が幸せなんて中坊でも言わねえぞ! おら! 相葉!」
「はいはい、俺が付き合いますから」
駄々をこねる田村を榊原が引きずって連れて行く。榊原はまかせとけのジェスチャーを僕にして、田村と消えて行った。
二人を微笑ましく見送って、僕は「宿題」に向き直る。が、指はピクリとも動かなかった。
結婚が幸せなんて中坊でも言わねえぞ、か。
田村の言葉は確かにその通りで、将来の夢を聞かれて「お嫁さん」と答えるのはもはや幼稚園児くらいかもしれない。「お婿さん」に至っては幼稚園児でも言わない。
結局、恋だの愛だのは人生を構成する一要素にすぎず、それを目的に生きるものはごく僅かだ。
恋愛感情は繁殖行為を促すためのもの。
オディールはそう言っていた。恋愛感情を持たない者から見れば、確かにそうなのかもしれない。僕も、その説を完全に否定はできない。人間以外の動物たちはつがいとなる者を見つければ、すぐに「繁殖行動」に出るものであり、一緒にデートしたり愛の言葉を囁き合ったりなどという段階があるなんて話は聞かない。
これに対して、人間はつがいを見つけてすぐに繁殖行動というのはあまりしない。できないと言った方が正しいのだろうか。人間は社会性のある動物であるからして、本能のままに生きることはできない。生物学的に見れば人間の方が明らかに異常なのだろう。様々なしがらみのせいですぐに繁殖行動に出られないがために、恋愛という感情が生まれたに過ぎないのかもしれない。
恋と愛について目を輝かせていたオディールを思い出す。
僕に、彼女を納得させるような答えが出せるのだろうか。
「おかえりなさい」
帰宅すると、愛梨が出迎えてくれた。ライラがその後ろからヒョコッと顔を出す。今日は白いサマーニットにチェックのプリーツスカートを履いていた。
「ただいま」
ふいに、家庭が賑やかなのはいいことだな、と思う。一人増えただけで、心の隙間にぴたりとピースが当てはまったような、そんな感じがするのだ。
「おかえりなさぁい」
が、オディールがリビングのソファでくつろいでいるのを見て、僕は膝から崩折れそうになった。
「悠真さん、こちら、ライラちゃんのお友達のオディールちゃん。とってもいい子なのよ。はい、クッキーどうぞ」
「いただきまぁす」
お行儀よく手を合わせて、お皿に盛られた出来たてらしいクッキーを頬張るオディール。
「んん〜! ほろほろですぅ〜!」
ライラも頬を薔薇色にしながらクッキーをもくもく頬張っている。
「悠真さん、クッキーいかがですか? 今日は自信作です♪」
「あ、ありがとう」
差し出されたクッキーを齧ると、たっぷり練り込まれたバターと蜂蜜の香りが口いっぱいに広がった。さっくり仕上がっているがバターがくどくない、絶妙なバランスの配合である。これは隠し味に練乳も入ってるな……ではなくて。
アインはピクリとも反応しない。誰でもいいから何か突っ込んで欲しい。
「それでぇ、宿題はできましたかぁ? 悠真ぁ」
にこにこと邪気のない顔で僕に話を振るオディール。宿題? と愛梨とライラが反応する。僕は嫌な予感に固まる。
「人間における愛と恋と婚姻契約、そしてそれに伴う幸せと人類の展望について、レポートをまとめるようお話ししたのですぅ。さぁ、研究結果の発表会が始まりますよぅ、みなさん悠真博士を拍手でお迎えください! ぱちぱちぱちぱち」
「愛と恋……」
「愛と恋。まぁ、悠真さんがそんなものを」
オディールに言われるまま拍手しながら二人とも見事に食いついた。誰か助けて欲しい。
「……いや、今日はちょっと忙しくてさ、また今度」
「博士が逃げるわよ、捕まえて」
寝室に引っ込もうとしたところを笑顔の愛梨とオディールに両脇から固められた。ずるずるとリビングに引っ張りこまれる。
「いやほんと、何もできてない、何もできてないから! やめよう! 解散! ほら解散! ね!」
「じゃあ経過報告でいいですぅ」
「調査メモとかあるんじゃないの?」
「悠真さんはよくスマホにメモをとっていますね」
愛梨の鶴の一声と見事な連携プレーでスマホは三人に奪われた。やばい、死ぬ。
「なによ。ロックがかかってるじゃない」
「「えー」」
ライラの言葉に、二人の不満げな声がシンクロした。僕はほっと胸をなでおろす。ありがとうスマホ。ありがとう先進技術。
と。
『──愛とは無償で与えられる人類の魔法。恋とは相手を追い求める心。愛梨の弁当は僕らが育んできた愛が結実したものであり僕の心を癒してくれる。嗚呼、愛とは素晴らしきかな、とかそんなことを書いていたな』
僕の口が勝手に動いて、錆び付いた声でメモの朗読をし始めた。アインのやつ、盗み見してやがった……! 僕は慌てて口をふさぎ、恐る恐る三人の反応を伺う。
「「「ふーん……」」」
声をハモらせてそれだけ言うと、はい解散、と三人が散った。僕は死んだ。
ぷるぷるとアインが肩を震わせている気配が伝わる。僕は、こいつ、いつか殺すと心に誓った。
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