3章 恋を知らない

第6話

 

 奇妙な出来事が続いても、体を悪魔に乗っ取られても、給料がなくては生活していけない。僕は愛梨を養う必要があるのだから。

 僕は愛梨の作った朝食を食べ終えてから、いそいそとスーツに着替えた。

「悠真、どこに行くの」

 ツノと翼を仕舞ったライラがとことこと後ろからついてきた。

 仕事だよ、と言いかけてハッとする。そうだ、ライラはどうするか。他の淫魔から狙われている以上、死なないとはいえそれよりむごいことをされる恐れがある。そばを離れるのは危険かもしれない。

『ライラの危険はいついかなるときも俺が感知できる。何かあれば空間を転移する。お前は勝手にしていろ。俺は寝る』

 錆び付いた声が頭に響いて、僕はほっとした。どうやらアインは僕の心を読み取れるらしい。

「仕事に行くんだ。日暮れには帰るから」

「ん……」

 ライラの表情が少し陰った。僕は首をかしげるが、愛梨がライラを娘みたいだと言っていたのを思い出す。ひょっとして?

「愛梨とお留守番しといてくれよな」

 ポンポンと頭を撫でると、一瞬、ライラの頬が桃色になって口元が緩んだ。が、すぐにハッとして、思い出したように口をへの字に曲げて目を逸らしてしまう。

「馴れ馴れしいのよ」

 そして、愛梨のところへと走って行った。ライラは、たまに驚くほど子供っぽいところがある。ライラは両親もいない、頼るものもいない。愛梨はそう言っていた。ツンケンしながらも僕の家での生活を気に入ってるように見受けられることもあり、僕はふと、彼女はこれまでどんな生活をしてきたのか気になった。

「悠真さん、行ってらっしゃい」

「うん、行ってくるよ」

 頭に浮かんだ考えを口にすることはなく、愛梨の笑顔に手を振って、僕は家を出た。


「お」

 今日は通勤ラッシュだというのに、珍しく電車の座席が空いていた。ついてる。僕はいそいそと座席に座る。

 安心してスマホをいじり始めると、どこからか視線を感じた気がした。顔を上げ辺りを見回すが、僕なんかを好き好んで見ているものはいない。

 気のせいか。僕は再びスマホのネットニュースに目を落とす。

「人間って、本当にそれが好きなのねぇ。その四角い機械」

 僕に言っているのか? ふと、隣を見る。

 やや太めの肉付きのいい体。異様に露出の高い服。くすんだピンクのセミロングに、ライラとよく似た赤い瞳。

「こんにちはぁ」

「ひっ……」

 オディール。

 見覚えのある甘ったるい笑顔に言われて、僕は思わず仰け反った。慌てて辺りを見回すと、なぜか人っ子一人いない。さっきまでほぼ満員だったのに。

「人目は気にしなくていいですよぉ。ここには私とあなたしかいませんからぁ」

 僕の頭に、あの記憶がざわざわと蘇った。失禁し、悲鳴をあげて身をよじるオディール。そしてそれを無理矢理犯した……僕。

 ぞっとした。何をしに現れたのかって、復讐以外考えられなかった。アインの気配はない。寝ているのか?

「そんなに怯えなくても大丈夫ですよぉ。別に何もしませんからぁ。というか、できませんし」

「できない……?」

 うんうんとオディールは頷く。

「私はもうただの淫魔で、オスから精液を搾り取る以外の能力はないのです。あ、射精したいならお手伝いしますよ?」

「いやっ、遠慮します」

 丁重にお断りする。不思議なことに、オディールには恨みや恐怖や、悲しみといった負の感情は何一つ感じられなかった。ただにこにこと屈託のない笑顔をこちらに投げかけている。

「でも、あの怪物が……」

 僕が言うと、初めてその表情に陰りが見えた。

「メムは、もういません」

 悲しげな笑顔を浮かべる。

「でも、悪魔や淫魔は死なないって聞いた。だったら……」

婿アダムとなる悪魔は処女の淫魔にしか興味はないのです。彼らは甘美な処女の味と、女王の婿の座を求めて淫魔に侍っているだけですから……。要するに、敗北した淫魔は婿アダムに捨てられる運命なのですよ」

「捨てられるって……」

「メムは、新しい女王が生まれたら、その娘たちをまた漁るでしょう。悪魔とはそういうものです」

 その表情は寂しげだった。

「女王候補の淫魔の戦う力も、婿アダムから与えられたものにすぎませんから、見捨てられれば何の能力もありません。次の女王候補のためにオスの精液を集め続けるだけの存在です」

 なんだそれは。花嫁を守るなどと言いながら、私利私欲のために利用しているだけではないか。僕が怒るのもおかしいのだろうが、釈然としないものを感じた。

「それで、あなたは私の処女を奪いましたよねぇ?」

 なぜか笑顔で、オディールはとんでもないことを言い出した。僕はスマホを取り落としそうになる。

「いや、それは、その」

「一度肉体で繋がった縁ですからぁ、こうしてお話をしに参ったのですぅ。ちょっと調べたんですが、あなた、奥さんがいらっしゃるじゃないですかぁ」

 冷や汗が僕の背を伝う。まさか、愛梨に何かするつもりなのか。

「結婚するって、どんな気持ちですか?」

「は?」

 何をおちょくっているのだろうとオディールを見るが、オディールの顔は真剣そのものだった。じっとこちらを見て、返事を待っている。

「どんなって……何が」

「生涯の伴侶を選ぶとは、どんな気持ちなのですか? 恋とは、本当に人を狂わせるのですか? 愛とは、どんなものなのですか?」

 矢継ぎ早にオディールは質問を繰り出した。これでは答える暇もない。

「いや、いや、ちょっと待って。なんなの? それは」

「一度、人間に聞いてみたかったのです。私は、恋というものを知りませんから」

「……?」

 僕はキョトンとする。

「でも、メムは? 婿とかなんとか」

「私は、見初められただけです。そういった感情は、持ったことがありません。信頼関係はありましたが……」

 どういうことだろうか。オディールの話は要領を得なくて、いまいちピンとこない。

「淫魔は、恋という感情を持たないのです。また、子孫を残すこともできません」

「え?」

「考えてみてください。恋愛感情は、繁殖行為を促すためのものでしょう? 私たち淫魔にとって、性交は繁殖行為ではありません。ただの食事です」

 確かに、精液を食べるとは言っていた。

「子孫を残せないがために、私たちは恋という感情を持ちません」

「でも、さっき女王の娘がどうのこうのって」

 オディールは、そうそれ! とでも言いたげに僕を指差した。

「そうです。唯一の例外が、女王なのです。淫魔は女王となることで、子孫を残せるようになります。そして、初めて恋という感情を持つのです。恋は、女王だけの特権なのです! 淫魔は皆、その感情を知るために戦っているのですよ」

 オディールは興奮した様子でぺらぺらと喋り続けた。そうなのだろうか。ライラを見ていると、あまりそんな感じはしない。

「ですが、私にはもうその資格がありません。もう、生きている限りその感情を知ることはないでしょう」

 僕はどきりとする。そのチャンスを奪ったのは、僕だ。

「ですから、せめて教えてください! 恋とはどんなものなのですか? 本当に胸が高鳴るのですか? 愛とは時に命よりも大事なのですか?」

 だがオディールに悲嘆にくれた様子はない。赤い目をキラキラさせて、お気に入りのおもちゃをねだる子供のように、僕に答えをせがんでいる。

「いや、ええっと……」

 しかし、どう話せば良いものか。あんなことをした負い目はあるため、力になりたい気持ちも、ないことはない。しかし愛梨のことは愛しているが、それを言葉にしろと言われても非常に困る。というか、小っ恥ずかしい。

「あ、あー。愛っていうのは、とても言葉にはできない、深い感情なんだ。愛する人と言葉を交わすだけで湧き上がってくる、人間だけの感情で、それを説明するのは非常に難しく……」

 適当にごまかしているだけなのに、ほう、ほう、とオディールは頷く。なんか羊皮紙っぽい紙にメモまで取っている。なんだか良心が痛んできた。

「……ま、まあ今日はここまでかな。ほら、今日仕事だから。仕事終わったらまた教えるから、また後で! ね!」

「ええ〜」

 オディールはあからさまに落胆した様子で肩を落とした。

「分かりましたぁ。また来ますから、そのときまでに愛とは何なのか答えをまとめておいてください。これは宿題ですからねぇ!」

 なぜか上から目線で言い放つと、オディールは僕から離れて、煙のように姿を消した。電車が揺れる音が辺りに響き、ざわざわと喧騒が戻る。僕の隣には、知らない学生が座っていた。

「……はあ」

 また面倒なことになったぞ、と僕は頭を抱えた。

 

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