第5話


 よく分からない状況というのは突然訪れる。

 例えば、今とか。

「し、死ねーっ!」

「悠真! 戻りなさい! 戻らないと殺すわよ!」

 愛梨とライラの二人がマウントポジションで僕をボコボコにする激痛で目が覚めた。何だこの悪夢。

「あ、あの……うぐっ」

 愛梨のシチュー鍋を食らって、また意識を失いかける。

「や、やめてください! お願いします!」

 悲鳴をあげると、二人の攻撃が止まった。

「戻るのが遅いのよ! クソ悠真!」

 なぜか僕だとわかった後も、パァンと気持ちいい張り手を食らって、僕は昇天した。


「あの……すみませんでした」

 よく分からないが目覚めてすぐ土下座させられた。愛梨とライラはダイニングの椅子に座っている。ライラは足を組んでいるので僕の位置から下着が丸見えになっているが、そんなことを言ったらまたボコられそうなので黙っていた。

「でも別に僕が悪いわけじゃ」

「シャラップ」

 ミルクティーの缶をライラがテーブルに叩きつける。

「アインに乗っ取られるのはあんたの意志が弱いからよ。簡単に主導権を渡さないこと。でないとあんた」

 ミルクティーをガブガブと飲みながら、ライラが苛立たしげに告げた。

「消えてなくなるわよ」 

「え……?」

「え、じゃないの。あんたの体は供物になった。すでにアインのものなの。体を失ったあんたの精神は宙ぶらりん。体に居続けるっていう意志がないと、二度と肉体に戻れなくなるわ」

 ふんふん、と横で愛梨が頷いている。愛梨と過ごした長年の経験からいうと、あれは何も分かっていない顔である。

 というか、愛梨のいる横でこんな話をして大丈夫なのだろうか……。

「よく分からないけど、悠真さんの中に悪い奴がいるんですね……」

 涙ぐむ愛梨。愛梨が天然でよかった。

「悔しいけど、私はアインには敵わない。歯向かったら何をされても文句は言えない……。メムにやられた時みたいに」

 記憶が蘇って、寒気がする。おぞましく凶暴な怪物。アインというのはあれの類なのか。

「愛梨も危険な目にあう。あんたが何とかするしかないのよ。あんたが、契約してしまったんだから」

「でも……」

 納得がいかず、声を上げる。ジロリとライラに睨まれる。

「わ、わかっ……た」

 何をどうしたらいいのか見当もつかなかったが、二人の視線にそう頷くほかなかった。


 血でベタベタだったため、シャワーを浴び、パジャマを着替えた。愛梨とライラは先に眠りについたようである。

「いて……」

 愛梨が手当てしてくれたが、手の切り傷はかなり深いようだ。包帯に血が滲んでいる。二人には言えなかったが、乗っ取られている間の記憶は、うっすらとある。ライラと愛梨に何をしたのかも……。

 僕は「あいつ」が好き放題やっている間、暗闇で「あいつ」に押さえ込まれて小さくなっていた。

 僕は、愛梨とライラが襲われているのに、何もできなかったのだ。しかし、あんな凶暴なやつに、ライラも太刀打ちできないような化け物に、僕ができることなど。

『わかってるじゃねぇか』

 錆び付いたような声に、体がビクつく。

『お前みたいな粗チン野郎は、影に隠れて縮こまってるのがお似合いだ』

「お前が、アイン、か……?」

 どこから声がするのだろう。すぐそばから聞こえるのに、姿は見えない。

『気安く名前を呼ぶんじゃねぇよ。こんな包茎野郎の体なんざホントはお断りなんだぜ』

「じゃ、じゃあ出て行ってくれよ」

 あと、包茎じゃないし。

『代わりの体が見つかれば、お前の内臓を引きずり出しながら出て行ってやるよ。チッ、何でこんなヤツと同調しちまったんだ』

「同調……?」

婿アダムは波長の合う人間しかバーサールにできないんだよ。まぁ、お前の中に俺と近い欲望があるってことだな。案外、ライラと愛梨を犯す妄想しながらセンズリこいてんだろ?』

 耳障りな声でアインがけたたましく嗤った。

「お、お前と一緒にするな」

『こっちのセリフだよ。てめぇの伴侶も守れねぇ半人前が』

 弱い部分をえぐられて、息が詰まりそうになる。こんな下衆にも反論できない自分が、どんどん小さくなっていく。

「うっ……!」

 右目に激痛が走った。ピンポン球を眼窩にねじ込まれたような違和感がある。慌てて洗面台の鏡を見た。

「なんだ、これ……」

 右目が肥大し、赤くなった黒目に異様な虹彩がギョロギョロと蠢いていた。

「ひっ……」

 背筋が寒くなり、後ずさって尻餅をつく。今度は猛烈な痒みが襲って、顔を掻き毟ると皮膚がボロボロと剥がれ落ちた。爪を見ると、血と皮膚がみっちりと詰まっていた。生え変わった皮膚はブヨついてブツブツと突起があり、チクチクとした感触がしてきた。昔料理した時、鶏皮に毛根が残っていたのを引き抜いたことがあるが、あの感触に似ている。

「フ、クロウ……?」

 鏡に映った顔の右半分は、巨大な眼球が特徴的な猛禽に似ていた。血に塗れて、強靭な足で肉を裂く、夜の支配者。

『お前の体を乗っ取ったら、まずは愛梨を調教して俺用の肉壺にしてやるよ。人間にしてはいい体してやがるからな。愛してる男の名前を呼ぶ女ってのは最高にそそるよな。やっぱり女ってのは無理矢理一物をねじ込んで組み敷いてやるのが幸せなんだよ』

 自分の口が動いて、薄汚い言葉を吐きちらす。こいつは、僕の体を使って言葉を発しているのだ。自分が愛梨を汚したかのような錯覚に陥った。いや、錯覚ではない。こいつの言いたいようにさせているのなら、僕がやらせているのも同然ではないか──

「ふざけるなっ‼︎」

 自分でも驚くほど、大きな声が出た。怒鳴ったのなんて何年ぶりだろうか。

『お前みたいなチンカスでも怒る知能があるとは驚きだぜ。妻が犯されても隣で尻尾振りながら見てると思ってたからな』

「あ、愛梨とライラに手を出すな!」

『はき違えるなよ。ライラは俺の花嫁だ。元々俺が目をつけた、俺のものさ。お前のものだって、奪われれば終わりなんだよ。欲しいものは力尽くで奪うし、力が無ければ奪われる。お前が肉体を奪われたようにな』

「僕は──僕はただ、ライラを救いたかっただけだ」

『そう。だが、ライラを救ったのはお前じゃない。それが現実さ』

 いつのまにかアインの声には、どこか諭すような響きがあった。僕はフクロウの目を見る。吸い込まれそうな赤い瞳には、僕にはない力があった。

『本当は覚えてんだろ。俺のバーサールになった後のことを』

 鏡に映った僕の顔は泣きそうな目をしている。

「僕は……」

 あの日の記憶が洪水のように襲ってくる。ライラと出会ったこと、ライラを見殺しにしたこと、ライラに救われたこと、僕を庇ってボロボロに傷ついたライラ、そして──

 

 俺はお前の罪。

 俺はお前の罰。

 共に罪を犯そう、俺のバーサール──

 

 錆び付いた声が僕の脳内にこだまする。

 傷ついた体に沸騰するほど熱い血が巡る。僕の血と穢れた血が一つになる。

 これまでに感じたことのない高揚感。全能感。

 獣の咆哮が聞こえた。いや、これは僕の声だ。

 ライラに手をかけていたメムがのろのろと振り返る。その間にも、僕の中は穢れた血で満たされていく。作り変えられる。蝶が蛹の中で一度ドロドロにその体を溶かすように、僕の体が消えていく。存在が塗り替えられていく。世界とはこんなに赤く錆び付いた匂いがするものなのか。

 上腕と背筋が肥大し、黒と白のまだら模様の羽毛がざわざわとその上を覆っていく。下半身が上半身を支えるために血流を増やした。腿が破裂するほど膨張し、ズクズクと脈打つ。パンパンになった指先は隣り合った指と癒着し、鱗が生えた。四つに裂けた指と強靭な爪は猛禽の足を思わせるが、それは腕であった。背中から上腕にかけて巨大な翼が生えているが、とてもそれでは支えきれないと分かる量の筋肉が全身を覆っている。

 黒い顔面は艶のある羽毛で覆われ、頭部の大半を占める赤い双眸が、ギョロリと豚の異形を見下ろしていた。

「ギャァァァァァァァァァァ‼︎」

 メムの咆哮が醜悪な嬌声だとするなら、『それ』の咆哮は命尽きるような断末魔だった。

「ブォォォォォォォォォォォ‼︎」

 メムが縄張りを主張するように鳴いた。メムの隆々とした上腕と首が、威嚇のためさらに膨れ上がる。動き出したのは同時。愚鈍さを連想させる巨体からは想像できぬ俊敏さで、二匹は瞬時に距離を詰めた。強靭な拳と猛禽の腕が衝突する。鋭利な爪が豚の指をちぎり取り、それでも豚は拳を振るう。肉と肉がぶつかり合うたびに大地が悲鳴をあげる。そこに小賢しい技巧は存在しない。あるのはただ力の証明であった。

 ライラは横たわり、虚ろな瞳でこちらを見ている。その目に映るものが希望なのか絶望なのか、僕は意識の片隅でふと気になった。

 いつの間にか意識を取り戻したらしいオディールも駆けつけていたが、背後でただ顛末を眺めている。淫魔に婿の争いを邪魔することなど許されない。淫魔は初夜を待つ花嫁のように、自分の婿を迎えるためにそこにい続ける。僕はそれを、なぜか理解していた。

 豚が猛禽の翼を引きちぎり、猛禽が豚の耳を食いちぎった。猛禽の背から血潮が噴き上げる。が、猛禽は鳴き声一つあげることはない。血を迸らせながら猛禽の肘が豚の首にめり込む。肉ごと骨が潰れる音がし、豚がえずくように呻いた。続けて鉤爪が豚の鼻を抉る。びしゃりと巨大な肉片がアスファルトに染みを作った。豚の絶叫が辺りに轟く。

 しかし、それが長く続くことはなかった。猛禽の拳がだらしなく開いた豚の口にねじ込まれ、上顎を掴む。残った手は下顎を捉えた。引き裂かれる顎に豚は苦悶の鳴き声をあげ、隙間からだらだらと唾液を垂らした。指の数本残った手で必死に抵抗を試みるが、猛禽の腕は豚の口を引き裂き続ける。みしみしと柱が軋むような音は歯が砕ける音だろうか、顎にヒビが入る音だろうか。

 猛禽が小鳥のさえずりのような声を発した。それが彼の口笛なのだと気付いたものがどれだけいただろう。

 豚の首が砕けるのと、顔半分が分かたれたのは同時だった。豚の喉から血のあぶくがゴボゴボと吹き出すが、それが醜悪な生き物の絶命の声だったのかもしれない。地響きを立てて、メムは地面に転がった。肉塊と化したメムには口と呼べる器官はなく、巨大な豚タンが受け皿をなくしてだらりと垂れ下がっている。猛禽はメムの口の一部だったものをアスファルトに投げ捨てた。

 戦いを終えた猛禽が向かった先は、しかしライラではなかった。

「メム……」

 オディールの足が震える。その内腿を水滴が伝った。淫魔にも失禁という現象はあるらしい。猛禽のくちばしで小鳥がさえずる。腕で数回しごくと、彼の下半身はすぐにそそり立った。オディールが羽ばたき、舞い上がろうとするが、猛禽の鉤爪は母元から赤子を取りあげるような自然さでオディールを捉えた。

「いやっ……いやぁ! やめて! お願い!」

 オディールが泣き叫ぶ。猛禽は申し訳程度に秘部を隠していた布切れを剥ぎ取り、どくどくと脈打つペニスを押し当てた。前戯などあるはずもなく、猛禽の一物がオディールの貫いた。オディールの内腿を、尿混じりの血液が滴る。嗚咽とも悲鳴ともつかない声があたりにこだまする。

 事を済ませると、猛禽はオディールを「引き抜いた」。オディールの足の間から体液がぼたぼたとこぼれ落ちる。ひくひくと痙攣するオディールを、猛禽は残飯のように投げ捨てた。オディールは悲鳴をあげることもなくメムの横に転がる。

「オディール……」

 ライラが哀れむようにオディールに手を伸ばす。その手を猛禽が遮り、捉えた。己の所有物を扱う手つきで、猛禽がライラを引き寄せる。塞がり始めた傷が開いて、ライラは呻いた。

 だが、猛禽の腕はライラのための棺のように、彼女を暖かく包み込む。そこが愛らしい淫魔のあるべき場所なのか。ライラの呼吸は徐々に落ち着いていく。

「アイン……」

 ライラが虚ろな目で静かに囁いた。アインは答えない。

 アインがライラの体をなぞると、その指先からライラの傷が癒えていく。彼自身の体液で汚れた指で、アインはライラの額にかかった乱れ髪を払った。ライラは僅かにまぶたを震わせて、それを享受する。アインは軽くライラの細い顎に触れると、最後に小さくさえずった。

 メムの死体が灰になる。アインはもうそれを見ることはない。鉤爪を器用に使い、オフィスビルの壁を登っていく。

 屋上にたどり着くと、アインは飾りでしかない翼を大きく震わせた。誰のものか判然としない血飛沫が辺りに飛び散る。千切られた片翼はすでに再生が始まっていた。ライラを床に寝かせると、アインは羽毛を数枚残して灰になった。灰の中から、僕の体が解放されて床に落ちた……。


 溢れる記憶に、僕はよろめいた。他人事でしかなかった記憶が、リアルとなって僕に襲いかかる。メムとぶつかり合う衝撃、泣き叫ぶオディールの声、オディールの体内を貫く感触を、僕は確かに感じていた。あれは僕の一部だったのだ。確かに僕はアインと共に傷つき、高揚し、オディールの胎内に射精した。

「僕は……」

 視界が霞む。水滴が洗面台にこぼれた。自分が泣いていることに気付いて、ますます自分という存在が小さく、小さくなり、誰にも見られてはならないもののように感じた。

 アインが僕の口で囁く。

『まあ、お前の体のおかげで処女を食えた。それだけは礼を言っておこうか。残り四人も、楽しみに待っているといい。もうわかってるだろうが、淫魔の処女は極上だからな』

 含みのある言い方をして、アインの気配は消えた。顔の右半分は、元に戻っていた。

 あと四人の処女を犯すまで、この戦いは終わらない──

 心臓が早鐘を打ち始めた。それがどんな感情によるものなのか、今の僕にはわからなかった。 

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