第4話

「はい皆様〜。お待ちかねのミルクたっぷり特製クリームシチューですよ〜」

 愛梨が可愛らしいギンガムチェックのミトンでシチュー鍋を持ってきた。玉ねぎをじっくり煮込んだ甘みとコクのある香りがリビングいっぱいに広がる。大きめに切られた人参とジャガイモ、厚切りのベーコン、アレンジで加えられた色鮮やかなカボチャ。思わずほんわりと笑顔になる。

「んっ、うまい!」

 まずはホクホクのジャガイモにホワイトソースをたっぷり絡めていただいた。ベーコンの旨味と薫りがソースにじんわり溶け込んで、そこに玉ねぎと人参、隠し味のじっくり炒めたセロリのコクが加わっている。セロリ臭さは全くなく、香味野菜の甘みとしてだけ機能していて、僕はこの愛梨の隠し味でセロリ嫌いを克服したという歴史がある。ジャガイモは、噛んでもほとんど抵抗がないほど柔らかい。

「……ふぅん。これが人間の食事ね」

 で、この食卓になぜか淫魔の少女も紛れ込んでいた。

「ライラちゃん、一人だって言うから、それなら一緒にって誘ったのよ。食卓は人が多いほど楽しいでしょう?」

「あ、そう……だね」

 愛梨がすかさず説明してくれる。本当に僕の感情を読むのがうまい。手のひらで転がされているとも言うが……。

 ライラは訝しげに玉ねぎをスプーンでつついたり、人参を鼻先に近付けて嗅いだりしている。

「ライラちゃん、クリームシチューは初めて? バゲットをシチューにつけてどうぞ」

 愛梨がバスケットにこんもりと積まれたバゲットを勧める。ライラはしばらくバスケットを睨みつけていたが、やがて観念したように一つ手に取った。

「僕もバゲットもらおうかな」

 ほどほどにトーストされたバゲットを手でちぎってシチューに浸す。ライラは僕の手つきをじっと見て、恐る恐る同じようにバゲットをちぎった。シチューに浸して、ぱくっと小ぶりな口に含む。

 と、みるみるライラの表情が輝いていく。見開かれた赤い瞳がきらきらして、病的なほど白い頬が薔薇色に染まった。僕はニヤリとする。

「うまいだろう」

「おいしい!」

「本当? ありがとうライラちゃん」

「おいしい! ホクホク、とろとろ、甘くてなんか……おいしい!」

 語彙力! と突っ込みたくなるが、気持ちはわかる、わかるぞ。

 結局、三人で鍋いっぱいのシチューとバゲットを空にして、丸々とした腹を抱えその日は就寝となった。


「ねえ、悠真さん」

 セミダブルのベッドの上で、ネグリジェに着替えた愛梨が声をかけてくる。僕は一足先にベッドの中だ。

「ライラちゃんって、可愛い子ね」

 愛梨は何やらご機嫌である。

「なんだか、一足先に娘ができたみたい。倒れた悠真さんとベランダにいた時は驚いたけれど、でも、どうやって悠真さんをここまで運んできたのかしら……」

 ぎくりとする。実はあの子は人間じゃないんですなんて言ったら、僕の頭がおかしいと思われるだろう。

「きっと、すごく頑張り屋さんなのね」

 ほわっと笑顔になってよくわからないことを言う愛梨。うん。愛梨は昔からやや天然が入っている。

「でも、ライラちゃん、ご両親もいないっていうし、外国の子みたいだし、頼れる人もいないって。何か事情があるんじゃないかしら。ねぇ、悠真さん。ライラちゃん、しばらくうちで面倒を見てあげるのは、ダメ?」

 愛梨が控えめにこちらの様子を伺ってくる。普通はそんな子がいたら警察に届けるものだが、そうならないのが愛梨らしい。身寄りのない者を厄介者扱いすることが、一番心を傷つけるのだと彼女は知っていた。

「うん、いいんじゃないかな」

 僕が言うと、愛梨は自分のことのように喜んだ。ライラちゃんのお洋服を買って、食器を揃えて、とベッドの中で計画を立て始める。が、気付くと静かに寝息を立てていて、僕の顔は自然にほころんだ。

 

 丑三つ時を回れば、全ての人間が消えたかのように、虫の音だけが静寂にこだまする。

 渇く。

 闇の中でひとり目を開いた。

 隣で栗色の髪の女が眠っている。悪くはないが、極上ではない。

 俺は、音もなくセミダブルのベッドを抜け出した。足音は影に吸い込まれる。静寂を邪魔するのは野暮なのだと、俺たちは知っている。

 リビングの引き戸を開けると、白い淫魔が静かに寝息を立てている。闇に溶け込めない哀れな娘。滑らかな頬を指の背でそっとなぞる。長い睫毛が微かに震えた。

 首筋から鎖骨をゆっくりとなぞる。しっとりと湿った肌が指に吸い付くようだった。布団を捲ると、その体は白いネグリジェに包まれている。淫魔にふさわしくない、少女じみたデザイン。爪で引っ張るとあっさりとリボンが解けた。

 発達途上の乳房がゆっくりと上下している。手のひらで包むと、柔らかいが僅かに反発した。えもいわれぬ高揚を覚える。思わず感嘆の吐息が漏れた。

「寝込みを襲うのは、あまりいい趣味とは言えないわね。アイン」

 目を閉じたまま少女が俺の名前を呼ぶ。だが抵抗はしない。そんなものは無駄だとわかっている。

「あいにく、いい趣味など持ち合わせていない。俺は花嫁を愛でるだけだ」

 蕾のような唇をなぞると、白い手が鋭く俺の手を払った。

「……私はあんたのものじゃない」

 オスを魅了する赤い瞳が俺を睨む。

「そうとも。だがお前はお前自身のものですらない。俺に守られ、俺に女王にされる。淫魔とはそういうものだ」

「女王になんて、なりたくない」

「それなら女王になる前に、俺にお前の全てを捧げることだ。俺に捨てられて、精液集めの淫魔くずれになりたいのなら」

「私は……」

 何か反論しようとした唇を唇で塞いだ。少女が小鳥のような抵抗を始める。だが、淫魔は婿アダムに逆らえない。

「お前の選択肢は二つ。俺の愛玩動物になるか、俺に喰われて捨てられるか」

 ライラの口元が糸を引く。少女は俺の目を見ない。あまりに幼い反応に笑みがこぼれる。

「お前に選択権があるだけ感謝するといい。つまり自由を与えているのだから」

 少女はもう何も反応しなくなった。俺が飽きて立ち去るのを待っている。

「女王候補を辞めたくなったらいつでも俺を呼ぶんだな。俺の花嫁……」

 少女の頬に軽く口付けて、俺は立ち上がった。

 

「悠真さん?」

 引き戸を締める背中に、話しかける声があった。

 栗色の髪の女、愛梨とか言ったか。いつの間にか目覚めていたらしい。不安そうに自分の胸の上で手を握ってこちらを見ている。

「ライラちゃんに何かあったんですか? あの……」

「大したことじゃない。気にするな」

「はい、でも……」

 大方、俺がライラにしたことの見当がついているのだろう。何かを堪えるように目を伏せた。

「わた、しは、何か悠真さんの気に触ることをしましたか。何か、嫌われるようなことを……」

 髪と同じ栗色の瞳に、涙が浮かんでいる。この肉体が他の女に触れたことがそんなに辛いらしい。

 女の頬に手を伸ばす。びくりと身を震わせるが、抵抗する様子はない。そのまま髪を撫でて、唇を奪った。

 と、女が両手で俺を突き飛ばした。

「あなた、誰……?」

 先ほどまでとは違う、困惑と恐怖を浮かべながら女が呟く。俺は内心舌打ちしながら後ずさりする女を追った。

「どうしたんだ愛梨。お前の愛する夫だよ」

「違う、違う! 悠真さんはどこ? あなたは何なの? そうだ、警察に……!」

 固定電話に駆け寄る愛梨の腕を掴んで組み敷いた。か弱い抵抗をする細い腕に、嗜虐心が刺激される。密着した体のふくよかなラインが、ライラよりはるかに女であることを主張していた。

 頼りない素材でできたネグリジェを引き裂くと、女は泣き叫ぶ。

「いや! 悠真さん助けて! 悠真さ……」

 うるさいので頬を軽く二、三発叩いた。これで血が出ることもないというのに、女の瞳から光が消え、絶望が溢れる。

 無抵抗になった女の下着を引きちぎろうとした時、首筋にむず痒いような痛みが走った。

 指でなぞると、血が滴る。

「私の目の前で下衆な真似をするのはやめなさい」

 可愛らしい淫魔が、愛用のジャマダハルの刃を突きつけていた。メリケンサックと短刀を合わせたような武器である。

「なぜだ? この女はこの肉体の妻だろう? どうしようと俺の勝手だ」

「それは愚かな獣の言い分ね」

「同じことだろう。この世には獣以外存在しない」

 ライラの手を掴み、ゆるりと立ち上がる。ライラの目に一瞬恐怖が映ったが、気取られぬよう睨んでくる。

「俺に刃向かうのか? そんな力がお前にあるとでもいうのか?」

 俺の言葉に答えるように、閃光が俺の顔を薙いだ。俺はライラの手を離し、高速で迫る刃を軽く首を捻って避ける。二の太刀、三の太刀が俺を襲う。俺は鼻歌を歌いながら軽くステップを踏んだ。ライラの両刃が虚しく空を切り続ける。

 ライラの動きが変わった。腕を振る遠心力を利用しての、鋭い上段回し蹴り。

 さすがに隙だらけ過ぎるだろう?

 俺は最小限の動きでがら空きのライラの側面に回り込む。拳を打ち込もうとした時、ちりつくような気配を感じた。

 眼前に閃光のごとき刃が迫る。ライラはまだ武器を振れる体勢ではないはずだった。

 回し蹴りで視界を塞ぎ、俺の避ける位置を予測してジャマダハルを投擲したか……。

 冷静に分析はしてみたものの、避けられない。

 しかし、笑みがこぼれる。かくも愛らしく強かな淫魔。やはり俺の花嫁にふさわしい。

 刹那、刃が脆い人間の皮膚を引き裂き、血が吹き出した。

 ジャマダハルの刃は俺の手に阻まれ眼前で止まった。受け止めた刃をターンさせて握り直し、ライラより数段早いスピードで打ち込む。

「!」

 ライラは残った片手の刃で俺の刺突を受け流す。が、力を殺しきれず刃が頬を切り裂いた。続く二撃がライラの手からジャマダハルを弾き飛ばす。

 意表を突かれ、丸腰となったライラの首を掴んで壁に叩きつけた。淫魔が細い悲鳴をあげる。俺はジャマダハルを投げ捨て、顔に血がつくのも構わず髪をかきあげた。

「さて、どうしようか……」

 ライラは歯を食いしばりながら俺を睨め付けている。少し力を入れるといい声で鳴いた。

「未来の花嫁をここでなぶるのもよし、犯して捨ててやるのもよし……」

 ライラの肌を撫でて反応を楽しむ。愛らしい顔が羞恥と屈辱に歪む。

「やあっ」

 ふんわりした掛け声が聞こえて、直後視界に火花が散った。見るとシチュー鍋を抱えた愛梨が二撃目を振りかぶっている。

「ああ?」

 殴り飛ばしてやろうとした時、ライラの頭突きが俺の側頭部に命中した。不意を突かれてよろめく。

「死ねーっ!」

 ほんわかした声に似合わぬ物騒な言葉を吐きながら振り回されたシチュー鍋が、またも俺の側頭部に命中する。

 俺の手から解放されたライラが鋭く体を回転させる。

 綺麗に体重と遠心力の乗った上段回し蹴りが、俺の体を軽々と吹き飛ばした。

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