2章 半人前

第3話

 目を覚ますと、自宅の寝室だった。

「え……?」

 飛び起きて、手足を動かしてみる。どこにも痛みはない。どころか、傷一つなかった。

「夢、か?」

 ひとしきり自分の手を眺めて、膝の上に置く。目覚めたばかりだと言うのに、体は鉛のように重かった。まるで死体だ。

 昨日の記憶が曖昧だった。ベッドで目が覚めたのだから、自分はきちんと帰宅して、パジャマに着替えた上で眠りについたのだろう。それだけのことが、にわかには信じがたい。

 リビングの方で、物音がした。愛梨が片付けでもしているのだろう。

「悠真さん」

 リビングに入ると、来客用の皿を拭きながら愛梨が微笑んだ。それだけで、形のない不安が薄れていく。そうだ。これが僕の朝で、僕の望んだ人生なのだ。

「あっ、僕、会社は……」

 頭がはっきりしたことで、とうに出社時間を回っていることに気づく。

「お休みの連絡を入れておきましたよ。昨日は大変でしたね」

 大変……?

「愛梨。他の服はないの?」

 ガラリと引き戸を開ける音と共に、聞き覚えのある声がした。

「こんなの恥ずかしくて着れないわ。私にはふさわしくないでしょう?」

 ライラが肩までの白いツインテールを手で払って、不満げな様子で腰に手を当てた。折れそうなほど華奢な体躯が、今は清楚な白いブラウスとジャンパースカートに包まれている。

 控えめに申し上げて、とても似合っていた。

「やだ、かわいい……」

 愛梨が率直な感想を漏らす。

「愛梨、今私のことをバカにしたでしょう」

 ムッとした顔でライラが愛梨に詰め寄る。

「私は、あらゆるオスを虜にする女なの! こんなの、私の魅力が一ミリも伝わらないでしょう! すぐに他の服を出しなさい!」

 小さな体を震わせながらライラは顔を真っ赤にしていた。これ、なんだろう、あれに似ている。一生懸命吠えてる真っ白なポメラニアン。

 一瞬ホンワリしかけたが、すぐに我に帰る。いや、そうじゃない。なぜこの少女がここにいるのだ? それに、かすかに覚えている記憶を辿ると、ライラは死にかけの重傷を負っていたはずである。

「ライラちゃんが、暴漢に襲われたあなたを助けてくれたんですって。ほら、お礼を言わなきゃ」

 物言いたげな僕の視線に気付いて、愛梨が説明してくれる。見ると、ボロボロになったスーツがゴミ袋に押し込まれていた。

「あ、ありがとう」

 あまり疑問は解決しなかった気がするが、しかしライラが僕をここまで運んでくれたというのは間違い無いのだろう。お礼を言うと、ライラは不機嫌そうにツンと顔をそらした。

「ライラちゃんの服もボロボロだったから着替えてもらったの。私の昔の服だけど、似合って  よかったわ〜」

「⁉︎」

 愛梨の言葉に、ライラが衝撃を受けた様子で固まった。そして、訝しげに白いスカートを捲ったり、引っ張ったりし始めた。よほどこの服が奇妙に見えるらしい。確かに、初めて会った時も露出の多い妙に大人向けのワンピースを着ていた。

「愛梨! ミルクティーが飲みたいわ」

 ライラはぽかんとしている僕をなぜか一瞥してから、愛梨にお茶を要求……というか命令した。

「あら、ごめんなさい、うちは紅茶はあまり飲まなくて、お茶葉がないの。自販機にミルクティーがあったから、それでいいかしら」

 ライラに小銭を渡す愛梨。ライラは満足げに、ん、と頷く。まるでおねだりする子供である。

 去り際に、ライラが僕のパジャマをクイッと引っ張った。

「?」

 キョトンとしていると、足を思いっきり踏み付けられた。

「いでっ!」

 ライラは僕をじっと睨んでいる。どうやらついてこいという意味らしい。

「あ、あ、僕もコーラが飲みたくなったな……ちょっと行ってくるね」

「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 愛梨に見送られて、外に出る。パジャマのままだと流石にあれなので、財布を持ってから上着を軽く羽織った。

 

「それで、なんなんだよ。何か話があるんだろ?」

「私、これ」

 ライラは僕の質問はスルーして、自販機の、昔からの定番人気ミルクティー『紅茶伝説』を指差した。ボタンを押せと言うことらしい。

「ボタンぐらい自分で押せば」

 しごく真っ当な意見を言うと、似合わないピンヒールでつま先をぐりぐりされたので、大人しく自分用のコーラと、ライラ用の紅茶伝説を買って渡そうとする。と、ライラは腕を組んで受け取らない。ツンと顎で何か指図する。

「……ひょっとして、缶を開けろって言ってる?」

 なぜか得意げにこくこくと頷くライラ。

「なんで僕がそこまで……いてっピンヒールやめて! 何だよ君はお姫様かなんかですか? ったく……」

 蓋を開けた紅茶伝説を差し出すと、ライラは目をキラキラさせて受け取った。両手で缶を包み込むように持って、ちびちびと舐めるように飲む。ほんとにポメラニアンみたいだ。

「そうよ」

「え?」

「私は女王の資格を持つ淫魔。人間で言えば、姫でしょうね」

 いんま? 聞き慣れない言葉に首をかしげる。

「サキュバスって言えば分かりやすいかしら。日本だと雪女? 分からないけれど。オスを魅了して交尾して精液をいただく世界一美しい悪魔なの。おわかり?」

「え、え、あ、うん」

 突然精液だの交尾だの言いだすものだから、飲んでいたコーラを噴きそうになった。人間でないことは流石に感じていたけれど、そんなセクシャルな生き物だとは。というより、少しは人目を気にしてほしい。

「え、待ってくれ。じゃあ君は僕の精液を狙っていでぇ!」

 ピンヒールが刺さった。激痛に悶え苦しむ。

「オスから精液を搾り取るのは下級のサキュバスの役目。私は献上された精液をいただくだけ。下衆な想像はやめてほしいわね」

「いや、知らないし……」

 不条理な暴力に反抗したい気持ちになるが、外見がこう、可愛らしいのでは反抗もしづらく、ぼそぼそと文句を言うことしかできない。決してライラでいかがわしい想像をしたわけではない。するわけがない。本当だ。いや、実はちょっとした。

「もっとも、今は悠真がいるから、精液をいただく必要もないのだけれど」

「僕がいるから? どういうことだ?」

「これよ」

 ライラが急に僕のパジャマを捲ってズボンに手をかける。

「ちょっと! やめて! こんなところで! 僕には愛梨が!」

「うるさい」

 パァンといい音で張り手された。痛い。

「見なさい。ここにアインの淫紋があるでしょう。これは淫魔と悪魔の供物となった証。これがある限り、悠真の精気と肉体は私とアインのものなの」

 確かに、下腹部のあたりに奇妙な形の痣があった。

「私にも同じ位置に淫紋がある。悠真はアインの『バーサール』になった」

「『バーサール』……」

 へえ、と頷く。

「いや待って! なんで僕がそんなのになってんの⁉︎ 供物とか嫌な予感しかしないんだけど……」

 慌てて聞き返すと、ライラはこちらをじっと見つめて言った。

「悠真はアインの声を聞いたはず」

「声……」

 ハッとする。


『俺はお前の罪。

 俺はお前の罰。

 共に罪を犯そう。俺のバーサール……』


 うっすらと記憶にある、錆び付いたような声。

「アインは悠真を選んだ。私が女王になるか、女王の資格を失うまで、悠真はアインの供物なのよ」

 僕は、気になって口を挟んだ。

「さっきから、アインって誰なんだ?」

「アインは、私の……」

 ライラは、言いかけて口をつぐんだ。その横顔で、赤い瞳が微かに悲しみに揺れた気がして。

「どうか、したのか?」

 ライラはそっと目を伏せた。目を開けた時には、すでにいつもの表情に戻っている。

「別に」

「ならいいけど。そういえば、怪我はいいのか? 確か、あの怪物に……」

 記憶が蘇ってきて、息を飲む。ライラを犯そうとしていた、あの怪物。

「大丈夫なのか。どうしてあんなのに襲われて……」

「それは、私が女王の資格を持っている六人のサキュバスのうちの一人だから。けれど、女王になれるのは一人。だからサキュバスの女王候補たちは争う」

「つまり、命を狙うってことか?」

「淫魔や悪魔に死はない。死んだとして行く場所もないのだから。傷は放っておけば癒えるし、アインが治してくれることもある。悠真の傷はアインが治した」

 死なない上にそんなこともできるのか。僕は傷一つない自分の体をしげしげと眺めた。しかし死なないとなれば、当然一つの疑問が浮かぶ。

「死なないのに、どうやって決着をつけるんだ?」

「女王の資格を奪うのよ」

「女王の、資格……?」

 ライラは続きを話すかどうか迷っているようだった。何度か赤い瞳を彷徨わせる。

 やがて、覚悟を決めたように口を開いた。

「女王の資格は、処女であること。そして、悪魔に見初められた淫魔であること」

 ギクリとした。ライラを犯そうとしていた怪物。あれは……。

「女王の資格を奪うって、まさか」

「そう。淫魔を犯し、お互いの処女を奪い合うことが、私たちの戦いなの」

 ライラは淡々と告げた。その視線は遥か遠くを眺めているようだった。

 淫魔を、犯す。

 ずくん、と下腹部の紋様が疼いた気がした。

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