第2話

「え?」

 そんな物騒な──いや、それ以前にどうして僕の名前を知っているのか。

 と、唐突に地面が震えだした。 

 立っていられないほどの衝撃と轟音に、僕はよろめいて突っ伏す。

──あれ?

 いつのまにか刺すような日差しも陰っていた。日が沈んだはずはない。何かが日を遮っているのである。

 しゃがみこんだ状態で後ろを振り向くと、隆々と発達したふくらはぎが目に入った。まず頭をよぎったのは、修学旅行で見た仁王像。大きさ八メートルはあったはずだ。足の太さは余裕で自分の胴体を超えている。なぜそんな像がここにあるのか。

「ブォォォォォォォォォ!」

 像の咆哮を聞いてようやく、それが生きていることと、震えているのは地面でなく大気であることを知った。

──え……え?

 呆然と像を見上げる。仁王像というのは言い過ぎだったようだ、せいぜい体長は三メートルといったところ。だが発達した四肢の太さはまさに仁王を思わせる。陸上最大の哺乳類であるクマだろうか。こんな市街地に? だがよくよく見れば浅黒い肌に体毛はわずかにしか生えていないし、頭部の形もクマのそれではない。

──豚、なのか?

 潰れた大きな鼻と耳に、小さな瞳。四肢とは逆にぶくぶくと肥え太った丸い頬。よく見知った家畜のそれであった。

──しかし、大きすぎる。

 何よりどれだけ四肢が発達したところで奴らは二足歩行などするまい。

「ブゴッ、フゴォッ」

 豚のツラをした仁王が醜い鼻を鳴らした。だらしなく開いた口からはボタボタと唾液が滴り落ちる。あたりに家畜小屋のような臭いが充満した。僕は思わず顔をしかめる。

「よしよしメム、いい〜子いい子」

 ハイヒールがアスファルトを叩く甲高い音がして、甘ったるい声がビルの壁に反響した。現れたその豊満なシルエットだけで、若い女だと分かる。くすんだピンクのセミロングに、浮かされたような潤んだ赤い瞳。異様に露出の激しい服を纏い、歩くたびに脂肪がたっぷり乗った乳房と臀部がふるふると震えている。腰回りにも脂肪はのっているが、太すぎるというほどではなく、これが好きだという男も多いだろう。

 しかし、飾りか何かだろうか? 側頭部から伸びた水牛のような大きなツノと、背中のコウモリを模した羽が異様な雰囲気を醸し出していた。

「ごきげんよう、可愛いライラ。その様子だとまだバーサールを見つけていないの? やる気がないって本当なのねぇ。せっかくアインに見初められたっていうのに」

 ライラと呼ばれた白い髪の少女は返事をしない。

「残念ねぇ。アインの顕現した姿を見るの、楽しみだったのに。まあいいわぁ。やる気がないなら好都合ねぇ。大人しくメムに従いなさいな」

 女は愛おしそうにメムと呼ばれた怪物を撫でている。メムは見るからに喜び、顔を弛緩させてだらしなく唾液を垂らした。

「確かにやる気はないけど、あんたの豚に汚される趣味もないわ」

 ライラは顔をしかめ、汚物を見るような眼差しをした。それまで笑顔だった女の顔がひきつる。

「……なんですって?」

「家畜には分からない? 臭いから近寄るなと言ったのよ、オディール」

 凍りつくような赤い眼差しが交差する。

「……うふふ。あらあらあら」

 が、すぐにオディールは口元を押さえ、わざとらしい仕草で笑い出した。

「そんなこと言って、本当にライラは私を怒らせるのが上手なのねぇ。いいわぁ……あら?」

 と、オディールがこちらに気づいた。僕の心臓が早鐘のように音を立てる。

「なんだ人間かぁ。びっくりしちゃったぁ」

 それが合図だったのか。メムが再び地の底から震えるような雄叫びをあげた。

 瞬間、凄まじい風圧に僕は目を閉じた。一瞬、静寂が訪れる。目を開けると、メムが腕を振り下ろす直前であった。ああ、これだけ巨大なものが全力で腕を振り上げると、風圧が起こるのだ──僕は妙に納得して、呆然と己の死を待った。抵抗してもいたずらに苦しむ時間を延ばすだけだと、なぜか僕は理解していた。

 再び風圧が僕を襲った。鋭い風が頬を切る感触は初めて味わうものだった。轟音とともにいともたやすくアスファルトが粉砕される。

 が、その音を僕は遥か離れた場所で聞いた。すぐ側で風を感じる。代わりに足裏から地面の感覚が消えていた。

「ひっ──」

 懸垂式ジェットコースターに乗った時のような恐怖が僕を襲う。いや、ような、ではない。事実宙に浮いているのだから。

「ふーん、死にたいのかと思ったらそうでもないのね」

 僕の胸に腕を巻きつけて抱きかかえたライラが、面白がるように僕を揺さぶる。

「わっ、ちょっ、やめ、やめてっ!」

 これはひょっとして──僕とライラは、空を飛んでいるのではあるまいか。

 ばさりと大きく羽ばたく音とともに「僕ら」は加速した。みるみるうちにオディールとメムの姿が小さくなっていく。

 ひょっとして──助けてくれた、のだろうか?

「ライ……」

 助かった安堵からか、ライラちゃんだろうかライラさんだろうか、とどうでもいいことが頭をよぎる。

 が、こちらの数倍近い速度で迫る黒い影を見た瞬間、そんな思考は消し飛んだ。

「やだぁ。そんなお荷物抱えて逃げきれるわけないじゃなぁい」

 ライラが小さく舌打ちした。僕らの前に躍り出たオディールの右手には、いつの間にか中世の拷問具のような鋭利な突起がついた鈍器が握られている。

「せーのっ」

 わざとらしい掛け声と共に、オディールは翼の推進力を利用し鋭く回転した。物々しい鈍器が風を切る音が響く。

 まずい。ライラは両手で僕を抱えている。逃げることも応戦することもできないではないか。

「三秒でケリをつける」

 ライラがぼそりと言った。なにそれカッコいい……僕は思った。

 次の瞬間、金属音が爆ぜた。

 オディールは弾かれたように体勢を崩す。ライラの両手にはメリケンサックと剣を合わせたような武器が握られている。

 応戦する気だ。

 いや、彼女が両手に武器を持っているということは、僕は?

「ああああああああああああああああああっ!」

 空気抵抗を感じながら僕は落下していた。理解するまでもなく、本能だろうか形容しがたい恐怖が襲う。俗にタマヒュンという感覚である。遥か頭上で鍔迫り合いの音が聞こえるがそんなものはもはやどうでもよい。

 ライラは落下する僕には目もくれず、体勢を崩したオディールの隙を見逃さず急所を狙う。

「あんたの馬鹿みたいに隙のデカい攻撃、またできるもんならやってみなさいな」

「チッ……!」

 今度はオディールが苦々しげに舌打ちした。密着した状態は彼女の間合いではない。一旦距離を取ろうとするオディールをライラが追い詰める。

「と、思ったでしょぉ?」

 距離を取ろうとしていたはずのオディールの顔が目の前にあった。ライラの短剣が振れないほどの超インファイト。

「!」

 意表を突かれたその時には、ライラのか細い腕はオディールに掴まれていた。

「うふふ。このままメムのところまで引きずりおろしてあげる」

 オディールはライラを拘束したまま急降下する。ライラは歯噛みする。力ではメムやオディールには敵わない──

「あははは! ごめんなさぁい? ほんとはそっとしておいてあげたかったんだけど、ライラが悪いのよ? 私とメムのこと馬鹿にするからぶひっ」

 勝ち誇るオディールの側頭部にライラの爪先がめり込んだ。オディールは鼻血を撒き散らしながら自由落下を始める。

「ああああああああああああああああっぐふっ」

 オディールが吹き飛んだ後、僕は地面スレスレのところでライラに拾われた。落下スピードがかなりのものだったので、受け止められた反動で戻しそうになるがなんとか堪える。

「うぶ……ありがとう」

「どういたしまして」

 素っ気ない返事を返し、ライラはそのまま上空に浮上するべく羽ばたいた。彼女にもいつのまにかオディールと同様ツノと翼があったが、不思議と驚きはなかった。

 しかしこんな女の子にお姫様抱っこされているとは情けない……。

 絵面を考えると頬が熱くなる。緊迫感もクソもない。これで助かっただろうという安堵もあるが。

 それがいけなかったのかもしれない。

 次の瞬間、僕らは地面に叩きつけられた。

「……⁉︎」

 何が起こったのかわからないまま呼吸が止まる。僕の体はおもちゃみたいに何度かバウンドして、ゴロゴロとオフィス街の路面を転がった。視界が真っ白になる。

「が……ば」

 意識が暗転を繰り返す中で、僕は必死にライラを探した。

「え……?」

 見えたのは赤。ライラの瞳の色。ライラの血の色。

 ビルの壁面にケチャップ瓶を投げつけたみたいに赤いシミができていた。そのシミが垂れ下がった先に、赤く濡れた白いツインテール。

「ライ……」

 糸の切れた操り人形みたいに、ライラの体は奇妙な方向へねじ曲がっていた。僕は這い寄ろうとして咳き込む。僕の咳にも赤いものが混じっていたが、そんなことは今はどうでもいい。

「ブフォ、ブォォォォォォォォォォォ‼︎」

 興奮した様子でメムが足を踏み鳴らす。こいつが、僕らの着地点を予想して待ち構えていたのだと気付くことはできた。しかし、それが今なんの役に立つというのか。

 メムが地響きをさせながら鼻息荒くライラに近付く。ライラはもうピクリとも動かない。

「ブフォオ、ブフォオオ」

 メムは笑っているように見えた。勝ち誇っているのとは違う、下卑た笑い。オスの性だろうか、僕はその意味に検討がついて……背筋が粟立った。

「やめろ……やめ……」

 メムは先程から太い指でしきりに下半身をいじっていた。太い足の間から赤黒く膨張した一物が見え隠れする。人とは比べ物にならないほど醜悪な形をしたそれは、別の生き物のように脈打ちながらそそり立っていた。

 ライラの服を引き裂く音が響く。か細い腰を掴まれたライラの肢体は、最後の抵抗だろうか、微かに痙攣していた。

 まだ、まだ生きている──

 その事実が僕に僅かばかりの力を与えた。壁に手をついて立ち上がる。片足は明らかに言うことを聞かなかった。だが歩ける。そう言い聞かせて、無理矢理にライラの元へ自分の体を引きずっていく。

 ライラの元へ行ったところでどうなるのかなんて、考えていなかった。あんな怪物相手に立ち回ることなどできるはずもない。でも。

「ら…イラ」

 ライラの指先がピクリと動いた気がした。

「ライラ、しっかりしろ、しっかりするんだ……!」

 ライラの血に濡れた瞳が、僅かに光を宿し、僕を見る。

 

──そして、悲しげに笑った。

 

 その顔は、前にも見た。

 もう、見たくなかったのに。

 赤く染まった唇が弱々しく動く。声にはなっていない。けれど、聞こえなくてもわかる。

 

──今度は、守ってくれる?

 

 守る? あんな怪物相手に何かできるはずもない。でも。

 

『花嫁を守るのは男の役目だろう──』

 

 どこかから聞こえる声に頷く。そうだ。僕の役目だ。

 

『誓え。

 全てを捧げろ。

 愛なんてチンケなものじゃねぇ、

 お前の誇りのためだ』

 

 当然だ。そんなこと、言われなくても分かってる──


『ならばお前は栄光と花嫁の供物。

 冒涜の盃を交わすもの。

 聖書を火にくべるもの。

 白いパンを穢れた血に浸すもの』

 

 そこで、僕の意識は闇に飲まれた。

 錆び付いたような声だけが、脳裏に焼きつく。

 

『俺はお前の罪。

 俺はお前の罰。

 共に罪を犯そう。俺のバーサール……』

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